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正法眼蔵 仏性 13

釈尊が言われた。   
仏性の意味を知りたいと思うならば、具体的な時間におけるこの世のあらゆるものをよくよく観察してみるべきである。自分の現在における与えられた時間というものをしっかりと見つめるならば、仏性はすぐに現れてくる。 ―大般涅槃経―

釈尊の言葉について道元禅師が解釈されます。
ここで釈尊が、仏としての性質はどういう意味のものかを知ろうと思うならばと言われているけれども、その知ると言う事は単に頭の中で知るという問題ではない。知るとは実際に自分の日常生活において何を行うかと言う事である。

仏性を単に空なるものとしてではなく、自分の日常生活において実際に体験しようと思うならばと言う事である。自分自身がわかっているだけではなしに、人に対しても仏性を説明してやりたいと考えると言う意味もあれば、それらの理屈を全部棚上げしてしまって、ただ一所懸命に日常生活をやる場合の事もその中に含んでいる。

この様に人に対して仏性を説く、仏性を自分自身で実際に行う、自分が仏性を体験する、仏性を超越して忘れてしまう、仏性の中で何らかの誤解をする、仏性の中で誤解を取り除くとか、そう言う様々の行動というものも、これら全てがやはり日常生活の中における様々の環境の中で行われるのである。

この日常生活における現在の時間の中における現実のあり方というものをよく観察しようとするならば、他のものを持ち出して来て理解しようとしてもそれは出来ない。現在の時間における環境そのものを手段としてその現実を掴むのである。それ以外に方法はない。その事を別の言葉で言えば、具体的に目の前にある道具を材料として観察するのである。


 
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生のお名前「愚道」と言うのはどういうところからきているんですか。

先生
私は自分の性格というかな、これまでを振り返ってきわめて愚かだと思ったから、愚という字をつけたんですよね。それはどういう事かというと、別の言葉で言えば私には妥協を知らないという性格があるんですよね、だから何でもとことんまでやるという性格を今まで持ってきたような気がする。

だから世間の生き方からすると、途中で適当なとこで止めるところを止めないで、どんどん突き進むというふうなところがあった。だから今日、坐禅とか仏教とかに到達した原因というのもそういう性格があったと思うんです。途中で納得してこの辺で大体よかろうという事で止めておったら、私の今日はなかったと思う。

その点ではバカ正直に前へ、前へ、前へと進んで行ったから多少世間並みでなくなってきた。世間並みでなくなってきたという事は非常に愚かな事であったという事でもあると思うんですね。ただ自分としてはそれを後悔していないという事でもあるわけです。そういう意味です。

質問
じゃ、愚道を卒業されたわけですね。コントロ-ルしたわけですね。

先生
どう言えるかなあ。やっぱり100%愚かなんじゃないかと思うね(笑)。

質問
でも「愚」のつく方ってありますね、大愚・・・。たくさん偉い方で・・・。

先生
はい。大愚なんていう方もありますよね。

質問
しかし、世間で考える愚というのは実は愚じゃなくて、もっと素晴らしい意味があるんじゃないかとも考えられるんだが、そんな事はないですか。世間で考える愚でいいんですか。

先生
ええ。そういうことじゃないかと思いますね。私は正直言って自分であんまり利口じゃないと思うから、それで愚とつけたんです。
                        つづく--


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正法眼蔵 仏性 12

「仏性」について道元禅師の注釈は続きます。

仮にこのように仏性というものは、草や木の種のようなもので、だんだんに大きくなるという考え方をしたとしても、その種や花の実は何かと言えば、それらはいずれも日常生活における瞬間瞬間の真心であり真心に基づいた行動である。それ以外にはありえないと学ぶべきである。

果実に種子がありその種子が見えるわけではないけれども、種から根や茎などが成長する。そして外側から物質を累加するわけではないが、ある程度の枝となり大きな幹になっている事実は草木の内側とか外側とかといった論議を超えており、この我々が住んでいる世界の永遠の時間の中で現に目の前に存在していると言う事を疑うわけにはいかない。

この様に考えて来ると、凡夫が様々な考え方をし様々な理解をする事はそれぞれの人に一切任せておくけれども、この我々の住んでいる世界における根、茎、枝、葉とかに当たるところの様々の部分というものが一斉に時を同じくして生まれ一斉に時を同じくして消滅していく。しかも、この世の中の一切のものが一つの性質、すなわち仏性に貫かれているという事を否定するわけにはいかない。

※西嶋先生解説
ここでは最初の部分で心というものを中心にしてこの世の中を理解していくという考え方を否定されたうえで、そうかといって、この我々の住んでいる世界というものは言葉であれこれと説明するわけにはいかない。しかも仏性という言葉では表現する事のできない何かによって満たされておると、こういう事を言われているわけであります。



            ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
お釈迦様が「一切衆生悉有仏性」とおっしゃったんですね。それを悟るのに六年間かかったんですね。そうすると、お釈迦様はあんな偉い方だから初めから仏性というものを持ってらしたはずなのに、どうして六年も苦しんだんでしょう。

先生
お釈迦様は三十五年かかったと思うね。「オギャ-」と生まれてからその問題はあったと思う。これはどの人間でも同じですよ。人間は生まれた時からその疑問を持って、そしてお釈迦さんが三十五才の時に何に気づいたかというと、自分というものは仏性だと言う事に気がついた。

持ってるという事じゃなくてね。ということは「自分は自分だ」と言う事に気がついたという事でもあるかもしれない。あるいは「自分は人間だ」と言う事に気がついたという事でもあるかもしれない。「自分は動物だ」と言う事に気がついたという事であるかもしれない。あるいは「自分には手が二本ある、足が二本ある」と言う事に気がついたという事なのかもしれない。

だから、ありのままの実体というものを掴まれたのが三十五才の時だった。そういう実体を掴むと言う事が人間を幸福にする唯一の道だと言う事を悟られて、その生き方を人に伝えようとされたのが釈尊のその後の生涯だったと、そういうふうに見ていいと思う。

だから仏道で何を勉強するかと言えば現実を勉強するわけです。実体がどうなっているかと言う事を勉強するわけです。そういう教えというのは西洋哲学にはない。そういう点では、仏教と言う考え方は西洋哲学から見ると非常に不思議な考え方で、想像もつかないような考え方と言う面がありますけどね。

ただ、人間が一番幸福になるにはどうしたらいいかと言えば、やっぱり一番手近な現実をしっかり見つめるという事が釈尊の教えです。ところが人間は、どうも頭で色々と考えて悩むからそういう悩みは捨てた方がいいと。その次に今度は色んな感覚的ないい思いをすると、それをもう一度、もう一度と言うふうな執着が生まれるけれども、それも乗り越えなきゃならん。

そういう二つのものを乗り越えると、現在の自分というもの、あるいは自分を取り巻く環境というものがしっかり掴めるから、その様にしっかり現在を掴んだ形で生きていけば、一番間違いのない一番幸福な生涯が送れるという考え方ですよね。その事に気づかれたのを、別の言葉で言えば「一切衆生悉有仏性」というふうに経典では説いておるわけです。


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正法眼蔵 仏性 11

仏性について道元禅師の注釈は続きます。

この世の一切というものは、個々バラバラに分かれている単なる物質の集積ではない。またこの世の一切というものは、心というものを中心にしてまとめられたところのたった一つのものでもない。

この我々の住んでいる世界とは一体何かと言えば、拳を振り上げるというふうな日常の具体的な行動に現れるところの現実そのものであるから、それが大きいとか小さいとかというふうに表現するわけにはいかない。

そのような意味で仏性と言われているのであるから、その仏性というものは、仏教界において真実を得られた人々と同じというふうに二つのものを並べて同じという考え方をする事はできないし、言葉の上での仏性というものと、現実の実体としての仏性というものとを同じというふうに理解するわけにはいかない。

ある一派の人々が考えるには仏性というものは草や木の種のようなものである。この宇宙の様々の恵みがその種の上にふりかかり潤される時に、芽が出、茎が成長し、枝葉が茂り、花をつけ、実を結び、さらにその結実した果実が新しい種子を含んでいる。

この様に仏性も少しずつ法(宇宙秩序)の潤いを受けて発展するものというふうに考える。しかしながらこの様に考えこのように理解する事は、まだ凡夫(真実を得ていない人々)の感情にひかされた考え方である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「八正道」の正語と言うのは黙っている事だと。これは先生の解釈なんですね。

先生
いや、これは沢木老師もよく言っておられましたよ。釈尊が説かれた教えというものの一つとして、「八正道」ということが説かれておるわけで、その「八正道」というのはどういう事かというと、正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正定・正念、この八つをいうわけ。

大体の言葉の意味を言うと正見は正しいものの考え方、見方。正思惟は考え方、見方ではなしに考えそのもの。具体的な例を挙げれば(1+1=2)というふうなのが正思惟という事である。立場がどうのこうのと言うのは正見の問題。

立場が正しいか正しくないかという事とものを考える手順が正しいか正しくないかという事と二つの問題があって、考えの方が正見、考えそのものの方が正思惟。正語は正しい言葉。正業は正しい行い。

正命は正しい生活。正精進は正しい努力。正定は体が正しく安定していること。正念は心が正しく落ち着いていること。こういう八つに分けて仏道というものを説かれた。

先日の講義のときの質問で、この「正語」というのは坐禅に関連して言えばどういう事になるのか」という質問に対して、「坐禅の時は結局何も言わない。何も言わないという事が言葉のうちの一番正しいあり方だ」という事を言ったわけでありますが、その事に関連する質問という事になるわけですね。

質問
これは坐禅の場合に限りますんですか。

先生
いや、そんなことないです。人間はものを言うよりも黙っている方が一番正しいことなんです。

質問
先生、これを英語で訳される場合、ノ-・ワ-ドですね。

先生
いや、だからこれは言葉通りには「正しい言葉」という表現で、言葉そのものは差し支えないんですよ。ただ坐禅との関連で、中身はどうかという事になれば何も言わない事が一番正しい言葉だと、そういう解釈になるわけですな。


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正法眼蔵 仏性 10

仏性について道元禅師の注釈は続きます。

しばしば起こりがちな事であるけれども、昔の長年の修行を重ねた先輩方が、ある場合にはインドへ行き仏道を理解してあらゆる人々を教化指導した例は、漢の時代から宋の時代に至るまで稲、竹、葦の数と同じくらい無数にあるけれども、

それらの仏教界の諸先輩方の多くは単に物質的なものが動いた事を目して、人間の心理作用、頭の中で動く動きを仏性によって物事を捉えた状態だと考えている事は哀れな話である。仏道の真実を学ぶという点で、甚だ愚かであるからその様な誤りが起きているのである。

しかし現在釈尊の教えを学んでいる後輩や初心者はこの様に考えてはならない。いま仮に把握とか認識とかというものを学んだとしても、その把握なり認識なりは単に物質的に何かが動くという事だけではない。

物質的なものが何か動く、心の中で何かの映像が映ると言う事だけを勉強したとしても、それらの映像の動きというものが「言葉では表現の出来ない何か」と同じものだと考えてはならない。

もし仮に人が物質の動揺というものを本当に理解する事があるならば、その人は本当の認識、本当の把握というものをも理解するに違いない。「仏」という言葉と「性」本質という言葉とは、「仏」に対する理解が進むと「性」に関する理解も進むという問題であって、

「仏」と「性」を二つに分けて個々に論ずるべきものではない。仏性というのは、いつの場合にもこの世の一切である。この世の一切とは「仏性」に他ならないのであるから。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
「狗子仏性」といって、犬には仏性があるかないかっていう公案がございますね。あそこで言っている仏性と、それからここで今日お習いした仏性と意味が違っているように思いますけれど・・・。あの仏性は人間の持っている性質、つまり判断力だの、そういう様なものが仏性だという事で、そうすると犬は駄目だっていうことになりませんか。

先生
その点では、「仏性」という言葉をどう理解するかという事が問題になるわけであって、今日のところでも出てきたように、人間のものを考える力が仏性だという風な誤った見方をしておる場合もあるという事を道元禅師ご自身が言っておられるわけですから。

そうすると、「狗子に仏性有りや否や」という風な問題についても、仏性をどう理解するかによっていろんな解釈が出てくる。道元禅師はその問題についても、自分はこう考えるという事が、この後の方に出てくる。


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正法眼蔵 仏性 9

仏性について道元禅師が注釈されます。

仏性と言う言葉を聞いて仏道を勉強している多くの人は、先尼外道(バラモン僧)の主張する考え方が仏教の考え方だと思っている。釈尊が生きていた時代に、先尼外道が唯心論(この世の一切は魂の所産である)と言う考え方を主張した。しかし先尼外道の考え方は仏教的な考え方ではない。

なぜ仏道を勉強している多くの人は、先尼外道の主張する考え方を仏教の考え方だと思っているのか。その理由はそれらの人々が本当の人間に出会った事がなく、また自分自身に出会った事がなく、本当の師匠に出会った事がないからである。それらの人々は単なる物質が動くに過ぎないところの心の働きというものを、仏性そのものによる外界に対する掌握だと考えている。

一体仏教界のどの先輩が仏性にはものを認識、理解、把握したりする力が具わっていると言ったであろうか。仏性とはものを認識、理解、把握したりする事とは別のものである。まして沢山の仏教界における真実を得られた方々が、ものを認識、理解、把握したりする場合は、先尼外道のあれこれと考えて創り上げた誤った理解の仕方を言うのではない。

また物質的なものが動いたり静止したりする事が、ものを認識、理解、把握したりするという事の意味だと言うわけではない。ただ具体的な個々の真実を得られた方々、あるいは仏教界の先輩の方々の示された姿そのものこそ真の認識、理解、把握と呼ばれるところのものである。


             
          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
個人的な問題なんですが、私の家は神式で私の父母も神主が来てお葬式をやったんです。そういう家柄を継いでおるわけですが、私は日本の神式というものがよくわからないので、先生のご著書を拝見してこの会で勉強させていただいているのですが、その点はどうしたらいいでしょうか。

先生
その点では仏教の立場は非常に包括的な立場ですから神道が存在しても一向に差し支えないという見方を私はしています。例えば今日ビルを建てるとしますと、神主さんを呼んできてお榊を四方に立てて祝詞をあげるわけですね。そこでその会社の役員とか主だった人が参加して、まことしやかに神様の祝詞を聞くわけですけれども、そういう事を宗教だと考える必要はないというのが私の見方です。

宗教というのは人生に対するものの考え方ですから、どの考え方をとるかという点については重要な問題がありますけれども、社会の世俗的な習慣として、建物を建てるときに神主さんを呼んで来て祝詞をあげてもらうと言う様な事は一向におかしくないし、それが宗教的にどうこうという事で問題にする必要は全くないというのが私の見方です。

ですから靖国神社の問題なんかにしても、靖国神社を参拝することは一向におかしくないし、それが宗教的な行事であって、国家的に擁護するのはけしからんと言う様な考え方は、私はどうも仏教の立場からはとれないと思います。

国家のために戦死した方が祀られておって、それに人が参拝するという事は一向におかしくないことで、そんなことが我々が家で坐禅することの邪魔になるかと言うと一向に邪魔にならない。だからそういう点では、仏道の立場からするならば、坐禅をする事が中心問題であって、それ以外の事はどうでもいいというのが私の見方です。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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