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正法眼蔵 三十七品菩提分法 40

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支)

八正道支(1・正見道支 2・正思惟道支 3・正語道支 4・正業道支 5・正命道支 6・正精進道支 7・正念道支 8・正定道支)

八正道支の「2・正思惟道支」について道元禅師が注釈されます。
正しい教えという真実に赴くための修行法とは何かと言うならば、頭の中で抽象的に問題を考えるのではなく問題をきわめて具体的に考えている瞬間においては、あらゆる方角におられる真実を得られた方々が皆現れるという事である。あらゆる方角が具体的に現れてくる、あるいは真実を得られた方々が具体的に現れてくるというのが何時かと言うならば足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っている瞬間である。

坐禅を行っている時は、自分自身と自分以外の外界の世界とが二つに分かれ、外界の世界の中に自分自身が坐っていると説明するわけにもいかない。そうかといって、自分が全く存在しなくて外界の世界だけがあるのかと言うとそうでもない。坐禅によって何を考えているかというと別に意識的に何かを考えているというわけではない。

その様な状態が何を意味するかというならば、釈尊が説法されたヴァ-ラ-ナシ-の国に自分自身が体を移してそこに行っていると理解することが出来る。坐禅をしている時の状態というものは、釈尊が説法されたヴァ-ラ-ナシ-の国に我が身を置いていることと決して別ではない。

薬山禅師が坐禅をしていた時に、ある僧が質問した。
動かないでじっと坐禅をしておられるけれども、いったい何をお考えですか。

薬山禅師言う。
例の考えないという境地(非思量)を考えている。

僧問う。
考えないという境地は、一体どのようにして考えるんでしょうか。

薬山禅師言う。
考えることではない。

薬山禅師が坐禅の内容として説かれたところが、まさに正しい考えであり、正しい思惟そのものである。一所懸命坐禅をすることが、正しい考えという事に他ならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
先生はいつか「スポ-ツというものは仏道にかなう」というような意味の事をおっしゃたことがありますけど・・・。

先生
これはね、人間が一所懸命やっているときというのは、つまらんことも考えていないし、何か他のものに執着しているという事でもないし、人間としてはかなり高い境地の状態ですよね。そのことが何かを一所懸命やっているというようなときには出てくると、そういう事ですよ。だからスポ-ツを一所懸命やっているというのも同じような意味がある。

質問
これが戦争となると、どういうことになりますか。

先生
戦争をやっておる兵隊そのもののあり方というのは、どうこうとあまり言えない問題だと思いますよ。ただ戦争を決定して実行する国家自身の行動がどうかという問題はある。そういうところへもっていった国の指導者はどうかという問題はあるけれども、いざ戦争が始まったときに、ドンドン、パチパチやっている兵隊について道義的責任がどうこうと言ってみても、これはあんまり意味がないんじゃないかという気がしますね。

質問
自分勝手に戦列を離れちゃいかん、という事ですか。

先生
う-ん、自分勝手に戦列を離れるという事だけが道義的な個人のあり方かどうかという事は、私は疑問だと思いますね。個人の倫理だとか道徳というのは、そういう環境から遊離したところで「こうならなければならん」という風な問題じゃなくて、周囲の環境の中でどう動くかという問題がある。

だから「私は反戦!」というようなことで、兵役が来た時に逃げ回っているのは「あの人は立派だ」というわけには中々いかんのじゃないかと。その国その国について色々な政治環境があって、その中での出来事なんでね。そういう立場がいいのか悪いのかというようなことは軽々には結論が出せないと思います。

よく「第二次世界大戦のとき亡くなった方は犬死だ」いうような考え方があるけれども、私はそんなことはないと思います。あの歴史的な時代の中においては、死ななければならなかったんだし、死んだという事が決して無駄だとか何とか勝手な評論はできないという問題がどうもあると思います。

質問
ま、気の毒でそういうことは申せないし、まあ言えないという事ですね、それは。

先生
ええ、それと同時に、そういうことを主張することが正しいのかどうかね、これ非常に疑問があると思います。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 39

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道支)

八正道支(1・正見道支 2・正思惟道支 3・正語道支 4・正業道支 5・正命道支 6・正精進道支 7・正念道支 8・正定道支)

八正道支の「1・正見道支」について道元禅師が注釈されます。
正見道支とはもののの見方に関連して、体全体で物事を見るという態度ではあるけれども、それと同時に事態を直観的に、瞬間的に見るという見方も具えていなければならない。

ものの正しい見方というものは、過去の問題ではなくて、いま目の前の事態を具体的にどう見ているかという問題である。一般的に言うならば、体全体で物事が見えるようにならなければ、仏(真実を得た人)と呼ばれ、祖と呼ばれることはありえない。

これは大変難しいようであるけれども、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしていると否応なしに体全体でものを見るわけであり、そういう状態を仏という。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
智慧に関する事だと思うのですが、よく世間では、「あの人は先見の明がある」とか 「先見の明があった」とかと申しますけど、仏教的にこの「先見の明」と言うのはどう解釈したらよろしいのでしょうか。

先生
先が読めるという事、これも智慧があるかないかと言う事に関係しますね。 ただ先の事が読めるよりも、現在どうしたらいいかで的確な判断の出来る方がより大切だという事は言えますね。 将来ああなるだろう、こうなるだろうと言う判断よりも、今日何をやったらいいか、 今日何をやらなければならないかと言う事が人間にとってはるかに大切だと思います。

常識的に言うと「あの人は先が見える」と言う事で、その方が評価されますがね。 先が見えるということは当てにならないという事でもあるわけです。 この世の中、現実はどう変わるかわからず、明日はどうなるか、明後日はどうなるかと言う事は、そう的確には誰も読めないわけです。 そうすると、先が読めるという事よりも、今何をしたらいいか、今どうしたらいいかと言う判断の方がはるかに大事だと言えます。
  
質問 
「熟慮断行」と言う事を申しますが・・・。
   
先生 
十分に考える事が必要でないと言う事ではない。 学問を一所懸命勉強して、どういう事をやったらどういう結果になるかと言う事も非常に大切な事です。 そういう科学の積み上げがなければ、人類は月へ到達すると言う事も出来ないわけです。 「熟慮断行」とは、長い時間をかけての目的に向かっての努力と言う事になろうかと思います。

ただ、もっと厳密に我々の日常生活を詰めて考えるならば、「今どうするか、今どうするか」と言う問題の方がはるかに現実的に迫ってくる。 だから、それにどう対処するかということが、一番の関心ごとになる。 そういう事でもあるわけですよね。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 35

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道)

七等覚支( 1・択法覚支 2・精進覚支 3・喜覚支 4・除覚支 5・捨覚支 6・定覚支 7・念覚支)
 
七等覚支の「2・精進覚支」について道元禅師が注釈します。
精進覚支(努力ということによって真実に近づく修行法)はどういう事かと言えば、市場で慌てふためいて焦った行動をする努力をしないことである。市場における我々の行動を考えてみるならば、自分が何かを買う場合もあるし、自分が何かを売る場合もある。

その売り買いに関しては当然あるべき値段が定まっている。したがって人間の努力と言ってみても、突飛なことをやって人の眼を驚かすという事ではない。

さだめられた価値を評価するだけの器量があり、ごく普通の日常生活を送るだけである。その様にごく普通の行動をとるという事は、自分の利益をある程度犠牲にして他人のためを図るというふうな状態に外見上は見えるけれども、体全体がどんなに叩かれても壊れないだけのしっかりした態度である。

それは、自分が仏道修行をして何らかの優れた言葉を得てそれを他人に与えることを一所懸命やっていて、それがまだ終わらない時点でそのことを聞くまでもなく、自分の心境をどう転換していったらいいかという事を自分自身の力で獲得する様な相手に出会う事でもある。

それは、あまり変わり映えのしない一つの日常茶飯事がまだ終わらないうちに、次から次へと同じような出来事がやってくるといった明け暮である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たびたびお伺いするんですけれども、坐禅をしておっての直観的なものを尊重すると言う事ですね。 先生のご体験としてはどう言う事がございますか。

先生
我々は年がら年中決断で動いています。 だけどその決断というのは頭で考えたって間に合わない。大抵は物事を頭で考えればいい智慧が出てくると思っているけれども、いくら考えても、考えというのは堂々巡りするだけです。 どうするかというのは、やっぱりその時の体の状態、心の状態が決めるわけです。

質問
出家と在家、これはお釈迦様の時代からハッキリ人間をそう区別されたのですか。

先生
ええ、これはインド以来の伝統であり習慣です。だからインドの人は出家してしまうと、お布施をもらって悠々と勉強しておるという身分になったわけです。今日でも東南アジアではそういう習慣がある。 タイ、ミャンマーの国の僧侶はお布施をもらって働かないで仏道修行しているという事がいまだに続いているわけです。 ただ、生産力が増加してくると、仏道修行の出来る人の範囲が広がるという事は言えますね。
   
たとえば今日の時代で言えば、とにかく朝から晩まで働きづめに働らかなくても生活は成り立つという事で、多少は仏道修行をやる時間ができた。生産力が低い時代は、坐禅をのんきにやっていられるのは専門の坊さんだけという 時代が長くあった。

今日では専門の坊さんでなくても幸いにして、本人の心がけ次第では坐禅をやる時間を持てる時代にやっとなってきたわけです。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 34

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道)の中の七等覚支に入ります。

七等覚支(真実に到達するための七種類の修行法)
1・択法覚支(釈尊の説かれた教えを選ぶ)
2・精進覚支(努力する)
3・喜覚支(真実の教えを実行して喜びを味わう)
4・除覚支(邪見や煩悩を除くことにより身心を軽やかにする)
5・捨覚支(対象への執着を捨てる)
6・定覚支(心身が安定している)
7・念覚支(心が一つに集中されていることから生まれてくる)

七等覚支(真実に到達するための七種類の修行法)について道元禅師が注釈されます。

七等覚支の「1・択法覚支」釈尊の説かれた教えを選ぶ
人生を考えてみた場合に、ごく当たり前に自然に生きて入ればなんの問題もない。ところがほんの僅かな食い違いが生れてくると、その違いがいつの間にか積もり積もって天と地ほどの食い違いに広がっていく。

真実に到達するという事は難しいとか易しいとかという事とは関係ない。ただ大切なのはこの世の中にはたくさんの教えがあるけれども、釈尊の教えを真実だと信じ釈尊の教えを自分で選ぶことである。




             ―西嶋先生の話―

道元禅師は非情に厳しい厳格な方だという印象が世間一般にあるわけですが、なぜそういう印象が生まれたかと申しますと、今日まで「正法眼蔵」が読めなかったからだというふうに言えると思います。読めない本の内容は非常に厳しい厚い壁に突き当たったような形でどうももよくわからない。

そうするとそういう本をお書きになった方は、超人間的な非常に厳格な方であったんではないかという想像が生まれてくるわけですが「正法眼蔵」の内容を一字一字追いながら読んでいきますと、道元禅師のお考えというのは決して人間離れのした厳しい厳格な教えというよりは、むしろ非情に温かい人間的な教えだという事があろうかと思うわけです。

ですからその点では、坐禅に関連いたしましても、毎日坐禅をやるべき時間が来たときには、何をさし置いても坐禅をおやりになるという事を絶対視しておられたという事は考え難いわけです。例えば48歳から49歳の時にかけまして鎌倉に行けれているわけですが、道中は何十日もかかった事であろうと思われるわけです。

ただその場合に、日中の坐禅をやる時間が来た時に道中をやめて、どこかに部屋をとられてその時間坐禅をされたかというと決してそういう旅行の仕方をされなかったのではないか。もちろん宿に着かれて坐禅をする、あるいは翌朝出発前に坐禅をするという事はおやりになったと思いますが、日中は坐禅の時間が来ても道中を続けられたのではなかろうかと想像できるわけです。

その点では、道元禅師の仏道修行、あるいは仏道に関する生活に対するお考えというのは、かなり弾力的なお考えををしておられたと、そういう事が言えようかと思うわけです。


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正法眼蔵 三十七品菩提分法 33

三十七種類の修行法(四念住、四正断、四神足、五根、五力、七等覚支、八正道)

※五力(1・信力 2・精進力 3・念力 4・定力 5・慧力)

五力の「4・慧力」について道元禅師が注釈されます。
慧力(体が均衡し心が均衡している時に生れてくるところの直観的な判断力による力)とは、時間を超越した永遠のものである。それは船が渡船場に出会う事によって初めてその機能を発揮するのに似ていて、個々のものが具体的にそれぞれの場所において役に立つことである。

「法華経」においても、その様に言っている。その言わんとする趣旨は渡船場は船がなければ役に立たないし、船があるという事が渡船場として役に立っているという事である。そのことは別の言葉でいうならば、渡船場が渡船場として独自の働きをしているという事が船が独自の働きをしている事と同じである。

それは春の季節が来てだんだん暖かくなってくると、今まで凍っていた氷が自然に自分自身で溶けていく状態そのものを言うのである。したがって、智慧というものに関連しても、決して知識がたくさんあって頭がよくてという事ではなくて、日常生活の与えられた場面場面において最もしっかりした判断が出来るかどうかという事に他ならない。

そのことを、春の氷と言えども自分自身で静かに自然に溶けていくというのが我々の住んでいる世界の実体である。そういう我々の住んでいる世界の実体を表す言葉として「慧力」という言葉も存在するのである。



              ―西嶋先生の話―

こういう形で五種類の力について、ここでは解説されているわけであります。ただこの五種類の力――信力、 精進力、念力、 定力、慧力というものが一体どういうことを意味するかと言うと、やはり坐禅の内容というものを説明しておられると、こういうふうに理解すると非常に理解が早くなるわけであります。

つまり、我々が坐禅をしている状態というのは、坐禅を信じて坐っているという事、それは釈尊の教えを信じて坐っておるという事でしかない訳であります。そしてまた我々が他の事をやる自由がありながら、ともかく足を組み、手を組み、背骨を伸ばしてジ-ッとしているという事は、仏道修行における最高の努力だという事でもある訳であります。

その時に得られる心の中の状態というものが、「念」と呼ばれ「念力」と呼ばれるわけであります。そういう坐禅の酔って得られているところの体の均衡、心の均衡というものが「定力」と呼ばれるわけであります。そういう心が均衡して、体が均衡している状態から生まれてくる直感的な判断力というものが「慧力」と呼ばれている。

したがって信力、精進力、念力、定力、慧力と五種類に分類はされておりますけれども、坐禅の持っておられる内容を五種類に分類しておるというふうに理解すると理解が早くなるわけであります。


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ご訪問ありがとうございます。 「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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