fc2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 仏性 25

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師の注釈は続きます。

ここで大医道信禅師が無仏性(仏性と言う名前をつけるのさえもったいないほど素晴らしい性質)と言われた事は、ほんのひと時のあいだ坐禅をやって、三昧の境地に入るという事が無仏性と言う言葉の意味だと言う学び方もある。

この様に考えてくると、仏性がしっかり発揮されている時を無仏性と言うのであろうか。仏性を得たいと思う気持ちを起こした時にすでに仏性が現れていると理解したらいいのであろうか。これらの事を質問すべきである。また主張すべきである。

この様な問題に関連しては、戸外に立っている柱にも質問させるべきである。戸外の柱にも質問してみるべきである。自分自身の中にあると言われている仏性にも質問をさせてみるべきである。

※西嶋先生解説
質問とか答えと言うのは普通は人間がやる事に決まっているわけです。ところが仏教の立場では人間の世界とその他の世界とにあまりけじめを認めない。だから、寺の戸外の柱にも質問させる事があるし、自分自身が戸外の柱に問いかけて質問する場合もある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私はお布施というのはお寺にお金を持っていく事だと思っていました。「布施」について教えてください。

先生
正法眼蔵には「むさぼらざるなり」とあります。お坊さんであろうと普通の人であろうと「はい、どうぞ」と言うのが、人間の普通の気持ちのあり方ですよ。人に物をあげようというのは人間の普通の状態です。ところが、ちょっと世相がずれてくるとそうはいかない。

人のものを取ってでも生きなくてはならないと言う考え方もある。非常にくだらん話だけれども、電車の中でよく見かける風景に席の取り合いがある。自分が坐ってしまうと膝を大いに広げて、なるべく他の人が坐れないようにと努力している様なところがある。それは今の時代の世相ですけどね。

人間の本当の気持ちと言うのはそうではないですよ。すこしつめあって「もう一人どうぞ」と言うのが普通の人間のあり方。だから、そういう普通のあり方を「布施」というんです。「むさばらざるなり」とはそういう意味です。

なぜそういう事が必要かと言うと、自分のため自分のためという事で、人の幸福が自分の喜びにならない様な状態というのは人間のあり方としては不幸な事。普通、世間ではよくそういう例がありますよね。人にいい事があると悔しくてしょうがない。

「隣の不幸は鴨の味」と言う言葉が封建時代にあった。隣の家に何か不幸があると鴨の肉を食べたほどおいしいと言う。この言葉は非常に浅ましい話だけれども、実に人間の心理をうかがっておる。
                        つづく--


最後までお読みいただきありがとうございます。

仏教ランキング

関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

最近のコメント

カテゴリ

FC2カウンタ-