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正法眼蔵 仏性 21

五祖大満弘忍禅師と四祖大医道信禅師との問答について道元禅師が注釈されます。

この様に四祖と五祖との間で問答が行われたのであるが祖師方の言われた事を考えてみるに、四祖の大医道信禅師が五祖の大満弘忍禅師に、「おまえの性は何か」と問いかけをした事についてはその狙いとするところである。

昔の仏教の指導者がお互いに問答を交わした場合には「姓は何と言うか」と言う問いかけの他に「どこの国の人か」と言う問いかけで仏教に関する問答を行った例もある。ここでの趣旨とするところは「おまえの姓はこれこれと言うふうに断定する事のできない何かである」と言う形で、各人の持っている本来の性質と言うものを説いた事に他ならない。

従ってこれらの問答において「お前の姓は何というか」と問いかけた事は、別の見方からすれば「おまえの性質はこれこれと言う言葉では説明する事の出来ない何かである」と言う教えを与えた事である。

その事は南嶽懐譲禅師と大鑑慧能禅師との間で「自分も汚れなしと言う事を目標にしているし、お前も汚れなしと言う事を目標にしている」と交わされた問答と同じ様な意味を持っている。

四祖と五祖との問答においては五祖大満弘忍禅師が「自分には姓があります。しかしこの姓は普通の姓ではありません」と返事をした。ここで大満弘忍禅師が言われている事の意味は「存在と全く一つになった姓は普通の姓ではない」と言っておられるのである。

普通の姓、ごくあたりまえの誰でもが口にする姓はある事はあるけれども、それは仮の名前であって人間の本質を具体的に指摘しているものではない。つまりある事はあるけれども、それが本質をとらえた名前ではない。

※西嶋先生解説
沢木老師がよく人の名前の事を下足札の番号と言われた。名前というものはどういう本質かと言えば、下足札の番号だという。最近は銭湯に行く人が減ってきたからあまり経験がないと思うけれども、昔は銭湯に行くと下駄箱があって、そこに下駄を入れる大きな木の札をくれた。

木の札には番号が書いてある。だからそれが五番であろうと、六番であろうと、十番であろうと、、十八番であろうとそう大した意味はない。十番には絶対の意味があるけれども十五番には大した意味がないとか、十五番はいい番号だけれども二十番はだめだとかそんな事はない。どの番号を持ってもたまたまその番号のところに下駄を入れたというだけの事。

人間の名前というものもそういうもので、何のたれべえという風な名前はそう大した問題ではない。しかしながら、誰でもが持っておる共通の性質というものは、誰それが何と呼ばれるかというような事と重要さが違う。どう呼ばれるかという事と、どういう性質を持っておるかという事とは重要さが違う、という事がここで説かれておることの意味であります。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
道元禅師は人間が死んでから、善い事をすると人間に生れ、悪い事をすると地獄・餓鬼・畜生とかになるという事を言っているんですか。

先生
生まれ変わる事よりは人間というのは地獄に行くのはわけないんですよ。悪い事をすりゃすぐ地獄へ行くんです。だから「六道輪廻」というふうな思想も仏教の立場から見るならば、人間がどういう境涯に生きるかという事であって「輪廻転生」の考え方と直接結びつける必要はないというのが仏教の理解の仕方だとみていいと思います。

「輪廻転生」の思想というものをバラモンの教えの中では非常に強く主張したわけですけれども、それを修正されたのが釈尊の教えですから、釈尊は「六道輪廻」という考え方をもっと現実的に理解されたとみていいと思います。

※六道輪廻 について
一般的には「六道輪廻」は、生前の行為の善悪によって、死後に行き先が決まる六つの世界があり、霊魂は不滅で死後また生まれ変わるという解釈ですが、この六道輪廻は古代インドにおいて仏教が生まれる以前にバラモンが説き、

その六道輪廻からどう逃れるかというのがバラモンの教えの中心的な問題であり、仏教が広まり伝えられていくうちに、それ以前にあったバラモンの教えが仏教の教えの中に混同されて、六道輪廻の間違った考え方が入りこんでしまった。

仏教を理解する場合にすぐ六道輪廻と言うようなことが出て来ますが、仏教はをむしろ六道輪廻を否定した教えで仏教思想の考え方の中には六道輪廻の教えはなく、六道輪廻は信じるに足りないと釈尊は主張されました。

六道輪廻は私たち普通の人間が、日常生活の中で次々に経ていく境涯を言い、坐禅は何のためにするかと言うと、こういう六道輪廻から脱け出すためです。

1・地獄(思い通りにならないという事で苦しんでいる状態)
2・餓鬼(あれも欲しい、これが欲しいと、いつも欲望に悩まされて焦っている状態)
3・畜生(自分の欲しいものを何とかして得ようと、はたの迷惑も構わず、人を傷つけることも自分を傷つける事も構わずに、とにかく欲望を達成しようと恥も外聞もなく欲しいものを得ようとする状態)
4・阿修羅(畜生の状態が高じて、非常に気持ちが荒れて暴れまわる状態)
5・人間 (暴れまわると、エネルギ-が発散されて、少しは人並みになってくる状態)
6・天上(人並みになると、人間はすぐ自惚れて自分は神様だと思う状態)
我々は自惚れが原因で、また地獄に逆戻りするという六つの境涯を日常生活の中で繰り返していく。


最後までお読みいただきありがとうございます。

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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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