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正法眼蔵 古鏡 40

雪峰義存禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

雪峰義存禅師が「猿が背中に古鏡をつけている」と言われた。では一体「どんな糊を使用して今日に至っているのか」という質問になるけれども、試しに答えてみるならば、群れをなして動いて行った猿の背中そのものが古鏡(永遠の鏡)を意味している。

また古鏡は何かと言えば猿そのモノの後ろ姿と言う事も出来る。つまり古鏡というものと猿の後姿とは別々のものではなくて、一つものという事ができる。そのことはどういう事かというと、古鏡とは古鏡そのものである。

また猿は猿としての存在であってそれ以外の何ものでもない。その点では、鏡の裏は鏡の裏に他ならないし、猿の裏は猿の裏に他ならないという説明の仕方は偽りや嘘ではない。正しいことを言い尽くした言葉である。そこで一群の猿を目して猿と見たらいいのであろうか、それとも古鏡と見た方がいいのであろう一体どう表現したらいいのであろうか。



               ―西嶋先生の話―
  --つづき
そういう二つに分かれた考え方がなくなった時には決断が早い。問題をどう考えようかと思うとすぐ直観的にパッと答えが出てくる。勿論その後で判断が正しいか正しくないか色々と材料を寄せ集めて検討する必要があるけれども、我々の判断というのは、色々と長いこと考えた末にやっと出てくるものではなくて、

一番最初にどうしたらいいか「パッ」と出て来てしまうものである。そういう直観的な正しい判断を生む根源を仏道では智慧と言う。直観的で現実的な判断が我々の日常生活の基礎であると言うのが釈尊の教えです。この事も我々が日常生活を生きていく上には、かなり大切な事である。

我々の心の中にありがちな善玉と悪玉という二つのものを一つに重ねてなくしてしまう修行が坐禅という事になる。だから我々が足を組み、手を組み、背骨を伸ばして坐っておる時は善も悪もない状態である。善も悪も無い状態というのは、極めて現実的な世界に生きている状態なのである。
                             つづく--


最後までお読みいただきありがとうございます。
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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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