fc2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 古鏡 39

雪峰義存禅師が三聖院慧然禅師が歩いていたときに猿の一群が通り過ぎて行った。

その時雪峰義存禅師が言われた。
この猿たちはそれぞれ一枚の古鏡(永遠の鏡)をその背中につけている。

雪峰義存禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
雪峰義存禅師が猿が背中に古鏡をつけていると言われたけれども、雪峰禅師はさるというモノを一体どんなふうにみられたのであろうか。このような形でさらに質問して十分に考えて見るべきである。長い時間が費やされても決してその事を心配するべきではない。

雪峰義存禅師が「猿がそれぞれ古鏡を背負っている」と言われたけれども、その言葉の意味は、古鏡は元来、釈尊や諸々の真実を得た方々が持っておられた姿を指すものと言えるとしても、同時にさらにそれ以上の意味というものが古鏡という言葉の中には含まれている。

猿がたくさん通り過ぎたのであるが、猿の群れの中には大きい猿も小さい猿もいたであろうけれども、その猿の一匹一匹が古境を背中に乗せていたという事は猿がそれぞれ個々に大きい猿も小さい猿もそれぞれが、古鏡という同じ値打ちの尊いものを持っていたであろう。

背中に乗せていたという事の意味は、たとえば仏画の背中に光背というものをつけているというのと同じである。したがって猿の背中にも古鏡が具わっていると言われたのであろう。

※西嶋先生解説
ここで雪峰禅師がたとえ猿であろうとも、猿というのは動物で人間以下のものとして何の意味もない、頭も劣っているというふうな捉え方をするのが普通であるけれども、仏道の立場から見ると、

この世の一切のものが真実であり、非常に尊いものを具えていると言う考え方をするので、猿が連れ立って山の中を群れをなして動いていく姿そのものも、真実そのものに他ならない。そういうところから、猿の背中にも古鏡が見られるという事を言われた。



               ―西嶋先生の話―

我々は子供の頃から学校で色々と教えられて来ている。「良心(善心)というものは大切なもの、それがなくては人間ではない」と。ところが仏教では良心(善心)というものが目立って自分の心の中に感じられるうちは、まだまだ本当の自分が出てきていないと言うわけである。

その事がどういう点で実際の生活に役立つかと言うと、実際生活でいろんな判断をするときに、一番正しい現実的な判断とは自分の心の中にある良心と悪心とが一つに重なった時に出てくる。良心と悪心とが別々にあるうちは、本来はこの様にしなければならないが、と言う事を自分の心の中で考える。

ところがあまり良心的にばかり考えると現実に合わなくなる場合もある。具体的にいえば損をしてしまうという問題に出くわす。そうすると、良心に従いたいんだけれども実際に従うと損をしてしまう。そういう問題がどうしてもある。そうすると、判断する場合、どっちにしようかなあと言ってウロウロ迷う。たいていの場合は良心だけに従っていてはとても飯が食っていけない。

そうかといって、良心にそむくのも気がとがめると言う事で、何となくどっちつかずの中途半端な判断をするというのが大体普通の生き方である。ところが心の中における善玉と悪玉とが一つに重なって消えてしまうと、判断する場合にすぐ現実的な判断が出来る。

それはどう言う事かというと、物事を空にする。頭の中で良心を基準にして考える事もなくなったし、そうかと言って、ただ損得だけを基準にした考え方もしなくなったし、この様な状態が生まれてきた時に初めて、我々は心の中に善玉と悪玉がなくなった状態を感じる。
                      つづく--


最後までお読みいただきありがとうございます。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

最近のコメント

カテゴリ

FC2カウンタ-