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正法眼蔵 古鏡 34

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

前に述べた問答の中で雪峰義存禅師が「鏡の前に鏡が現れた場合には、外国人も見えなくなるし中国人も見えなくなる」と表現されたけれども、その言葉は「外国人も中国人も、明鏡(くもりのない鏡)が現れた時には、現れようがないと言う事を言われたのである。

この中国人も外国人も現れようがないという言葉の意味は一体どういう事であろうか。外国人や中国人が鏡に映るという場合に、その外国人や中国人が映ったという事によって鏡そのものがなくなったわけではない。鏡があればこそ中国人も映り外国人も映ったのである。

中国人や外国人でなしに鏡そのものが出てきた時、鏡と鏡とが重なった時、自分自身が一つになった時、自分自身が無我夢中で働いている時には、なぜ外国人も中国人も姿を見せなくなってしまうのであろうか。

古鏡(永遠の価値を持った鏡)の場合は外国人が姿を現せば鏡に映るし、中国人が姿を現せば鏡に映るという事であるけれども、明鏡(くもりのない鏡)が現れたと言う事は事情が変わったのである。

自分自身がたった一つのものになったと言う状態では、自分以外の外界の世界はすべて姿を隠す。ものを考えたりものを感じたりしている余裕はなくて、自分自身が一所懸命に働く状態が現実に出てくるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
坐禅というのは、思惟や考える事をやめよと言われますね。要するに頭を空っぽにするという事ですね。

先生
そうすると黒板を一所懸命ふくようなもんで字を書いちゃいけないというような努力になるけれども、そういう事でもないんでね。逆に「さあ火事だ!自分の荷物を一つでも多く持ち出そう」と言って、一所懸命にやってるのが坐禅と同じ境地だという事も言えるね。

つまり、ものを考えちゃいかんというような事じゃなくて、背骨が真っ直ぐになっているか、寝ちゃいかん、居眠りしてはいかんという風な事でもある、それが坐禅。これも坐禅というものの理解のためにはかなり大切な事だと思う、これも最近強く感ずるわけ。

その点では「三昧王三昧」の巻に「打坐を打坐と知るなし」という言葉がある。坐禅が坐禅だと言う事がわかっておる者がおらんという表現がある。坐禅は何らかの目的の為にやるものという事ではなしに、足を組み、手を組み、背骨を伸ばしている事という事がわかっている人間がいないと言っておられる。

その事が坐禅というものを見ていく場合に大切な事で、自分の家が火事になったら荷物を持ち出すのは大変という事以上に大変かもしれない。その点では現在自分が与えられた境遇に従って一所懸命生きるという事が、人生そのものだという事にもならざるを得ない。

ところが割合こういう生き方をする人が少ない。大抵は働くのは人様だと思って横から眺めて「まあこの位やっていればいいだろう」とか「あんまり働き過ぎて体を壊しちゃいかんから一歩退いて」とか「月給が上がるように働くふりをして」とか、いろいろ複雑なわけ。

だけどそういうつまらん立場でなしに、与えられた仕事を無我夢中でやる立場、人間の生き方としてそれがかなり大事。これは損得の問題を乗り越えてる。損得を考えていると自分の人生が損得の上にのった人生になってしまう。

そうすると自分の本当の人生の価値というものはどっかへ行ってしまう。自分の人生と損得というものとを置き換えてしまう。そうかと思うと「人がどう思うか、人が誉めてくれるかどうか」という風な事を基準にして、それだけを夢中になって考えていると、やはり自分自身の人生というものはどっかへ行ってしまう。人がどう思っているかという事だけが気になる。
                       つづく--
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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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