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正法眼蔵 古鏡 33

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

抽象的に時間を超えたモノは何でもお見通しである、古鏡と言う言葉を聞いたら、すぐそれが明鏡(くもりのない鏡)だというふうに短絡的に理解してはならない。

ここで古鏡とか明鏡と言っているが所詮は自分自身が自分自身を管理できるかどうかと言う問題に帰着する。インドにおける仏教界の諸先輩も自分自身をしっかり掴んでいた。

自分のやりたいと思う事をしっかりとやり、自分のやりたくないと思う事はやらないで済ます事が出来るかどうかと言う事が仏道修行者の目的である。その境地に達するように一日も早く努力すべきである。

仏教界の先輩方が言われている。「時代を超えて古くから我々が持つているところの素晴らしい価値というものも、やはり磨く必要がある、鍛錬する必要がある」と。

その点では明鏡(くもりのない鏡)といえどもやはり磨かなければならないのであろうか。その点もよく研究してみる必要がある。まさにひろく仏教界の先輩方が言っておられる言葉を勉強してみる必要がある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―                                                                            

質問
道元禅師は最初、在家でもそれなりに努力をすれば相当いけると、後半になると出家して専門的にやって厳しく戒律を守らなければ駄目だと。それは道元禅師の思想が変わられた訳ですか。

先生
道元禅師の書かれたものでは、確かに出家についての考え方の変化があるという事は事実です。ただ今日の問題として、出家しなくても仏道がわかるかどうかと言う問題については出家しなくても仏道がわかるという事、これはハッキリ言えると思う。

出家しなくても仏道がわかるためには何が必要かと言うと、毎日坐禅をやるかやらないかだけですよ。出家する、出家しないと言う問題よりも、毎日坐禅がやれるかやれないかだけで、仏道がわかったかわからんかが決まる訳です。

今日の様に経済生活が発達して来ると、人間が余暇を持つ事が出来る様になった訳ですよ。道元禅師の時代は生産性が低いから、よほど特別な人ではない限り寺院に入って坐禅を専門にやると言う事が出来なかった。

今日は生産力が発達してきたから、誰でも一日のうちのある程度の時間は余暇として自分の好きな様に使える時代がやっと来たわけです。だからそう言う時代には、そう言う余暇を利用して坐禅をやれば、在家の人でも立派に仏道がわかるという事、これはハッキリ言えると思います。
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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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