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正法眼蔵 古鏡 32

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

玄沙師備禅師が「突然くもりのない鏡が永遠の鏡の前に出現したらどうなりますか」と言う言葉で、縦横無尽に明鏡と古鏡を説明し、性と相というものを説明していると言う事を知るべきである。

またその様子というものがどこから眺めても透き通っていて美しい状態である。その事は別の言葉で言うならば、人と人とが出会うという事はその人が仏としてこの世に出現する事に他ならないし、人が仏としてこの世に現れたという事は、その現れたという事だけで人に対する教えを施す事が出来るという事にもなる。

そうしてみると、玄沙師備禅師が例にとられたところの明鏡と古鏡の時代を超えた価値とが同じものだと考えたらいいのであろうか、別々のものと考えたらいいのであろうか。明鏡と古鏡との関係から言うならば、明鏡と言う言葉でたとえられた人間の心というものの中に、

時間を越えた尊さが含まれているのかどうかと言う事を考えてみるべきであるし、時代を超えた尊いモノの中に曇りの無い、何でも見通すことのできる力というものが含まれているのかどうかという問題を考えてみるべきである。




           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道の本筋を勉強していきますと、やっぱり一般社会にあんまり受け入れられない理解の仕方や行動を示すようなきらいがあるので、そういう事までよく自分で承知して行動しないと、うまく適用とか適合とかしなくなるきらいもあるんじゃないですか。

先生
いや、そういう事はないんですよ。というのはね、どんな人間社会でも宇宙の中の一部なんです。ですから宇宙の原則がわかっておるとどんな人間社会のどんなつまらない動きも全部読めるんですよ。

仏道を勉強することの意味の一つはこれなんです。人間が我利我利の立場で金儲けに血道を上げていても、仏道が身についていると、それらの人々がどんな原則で動いているかが見え見えに見えるんですよ。それが仏道の意味なんです。

だからそういう点では、仏道の立場を基準にして日常生活を生きていけば、自分の意思を主張しながら人とぶつからないという境地があるんです。これは非常に狭い幅の動きですけれども、

そういう厳密な非常に狭い範囲の動きをするためにやるのが仏道修行なんです。自分の意思を通しておきながら、周囲と摩擦を起こさないというのが仏道ですよ。それを狙わないと仏道修行の意味がないと、こういう事があると思います。
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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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