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正法眼蔵 古鏡 31

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。

このように鏡というものは二枚ではないというふうに考えるべきではあるけれども、我々の心を象徴しているか、我々の体を象徴しているか、あるいは人間というものを象徴しているかは別として、そう言う時代を経た古鏡(永遠の意味を持った鏡)は我々として現に目の前にある。

またそれを果たして是か非かというふうな形で批判する事の出来る明鏡(くもりのない鏡)と言うモノも、現に具体的なモノとして、我々としてこの現実の世界に存在している。

その点で我々人間というものを鏡に例えた場合に、時代を超えた非常に価値のある鏡という風に例えることも出来るし、また善悪をはっきり見ることが出来る様なくもりの無い鏡という風な譬えも出来るという証拠、印というモノは、雪峰義存禅師と玄沙師備禅師とが交わされた問答によって知る事が出来る。

古鏡と明鏡と言う言葉で二つのものがあると言っているのではない。本質と外見とそういう形で結局は一つのものだけれども、別々に分けて考える事も出来るという立場で理解するべきである。



              ―西嶋先生の話―
  --つづき

中身というものと外見というものは使い分けることが出来ると普通は考えておるけれども、仏教思想ではそう考えない。どうしても中身と外側とは一つのものだからいつかは全て出てわかってしまう。

外側だけを見場がいいようにしておけば何とかなるという事が中々通らない。そのことに関して、性と相が一致している「性相不二」という言葉がある。これは仏教的な考え方の一つの非常に基本的な考え方である。

人によっては、身なりというものを非常にきれいにする人もいる。それじゃ身なりのいい人は中身がいいかというと中身に自信がないと身なりをよくしようとする人も割合いる。だから、あんまり身なりがよすぎると「これは中身はどうかな」と思って、逆に心配になってくるという風な問題もあるわけです。まあそういうことは余談でありますが・・・。

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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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