正法眼蔵 古鏡 26
雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。
そういう理解の仕方をすれば、太宗が人を鏡にし人を基準にして天下を治めたという理論には該当しない。では、人を鏡とするというのはどういう事かと言うと、鏡は鏡としてそのまま使うと言う事に他ならない。
自分自身を鏡に使って、それに映じた姿で政治を行ったと言うに過ぎない。その点では、過去における色々な出来事を基準にして人を選んだと言う事ではなくて、自分自身の心を治めて、自分自身の体を治めて、
その正しくされた体、正しくされた心を基準にして、政治を行ったというに過ぎない。それは、「五行」を鏡と知る事でもあり「五常」を鏡にすることでもある。
※西嶋先生解説
「五行」というのは、これもやはり中国の哲学の中に出てくるもので、中国では物質的な要素というものを、木・火・土・金・水と言う要素に分けて問題を考えた。だからこの五行というのは、我々の住んでいる物質的な世界すべてを五行と言う。「五常」というのは、中国における基本的な五つの道徳、仁・義・礼・智・信。
―西嶋先生にある人が質問した―
--つづき
質問
先生も若い頃は悟ってやろうというお気持ちがあったけれども、今の心境としてジッと坐ってる、ありのままの状態でいいんだという確信をお持ちになったとおっしゃっていますが、
そのことを「自覚」でもいいし、「わかった」と言ってもいいと思うんですが、私は「悟り」という言葉を使ってもいいんじゃないかと思うんですけど、いかがなものでしょうか。
先生
その辺は言葉の使い方の問題だからね。あなたが言われたような意味に解して間違いではないと思います。
質問
言葉の遊びみたいになって恐縮ですが、「結果論」という言葉がありますが仏道というのはやはりその結果論ですか。
先生
いや、結果論じゃないね。結果論というのは後からの説明でね。仏道は結果論をやっているほど我々の人生はのんきじゃないという思想ですよ。結果論ぐらいのんきな思想はないんでね。後からでてきて「やあ、やっぱり俺の考えた通りだった」というような事を言うわけだけどね。
人生というのはそんなのんきなものじゃないです。今何をやらなきゃならんかという事で、年中追いかけまわされているわけだからね。結果が出てから「さて自分の考えを述べます」じゃ、間に合わないわけでね。だから仏道というのは結果論じゃないです。
そういう理解の仕方をすれば、太宗が人を鏡にし人を基準にして天下を治めたという理論には該当しない。では、人を鏡とするというのはどういう事かと言うと、鏡は鏡としてそのまま使うと言う事に他ならない。
自分自身を鏡に使って、それに映じた姿で政治を行ったと言うに過ぎない。その点では、過去における色々な出来事を基準にして人を選んだと言う事ではなくて、自分自身の心を治めて、自分自身の体を治めて、
その正しくされた体、正しくされた心を基準にして、政治を行ったというに過ぎない。それは、「五行」を鏡と知る事でもあり「五常」を鏡にすることでもある。
※西嶋先生解説
「五行」というのは、これもやはり中国の哲学の中に出てくるもので、中国では物質的な要素というものを、木・火・土・金・水と言う要素に分けて問題を考えた。だからこの五行というのは、我々の住んでいる物質的な世界すべてを五行と言う。「五常」というのは、中国における基本的な五つの道徳、仁・義・礼・智・信。
―西嶋先生にある人が質問した―
--つづき
質問
先生も若い頃は悟ってやろうというお気持ちがあったけれども、今の心境としてジッと坐ってる、ありのままの状態でいいんだという確信をお持ちになったとおっしゃっていますが、
そのことを「自覚」でもいいし、「わかった」と言ってもいいと思うんですが、私は「悟り」という言葉を使ってもいいんじゃないかと思うんですけど、いかがなものでしょうか。
先生
その辺は言葉の使い方の問題だからね。あなたが言われたような意味に解して間違いではないと思います。
質問
言葉の遊びみたいになって恐縮ですが、「結果論」という言葉がありますが仏道というのはやはりその結果論ですか。
先生
いや、結果論じゃないね。結果論というのは後からの説明でね。仏道は結果論をやっているほど我々の人生はのんきじゃないという思想ですよ。結果論ぐらいのんきな思想はないんでね。後からでてきて「やあ、やっぱり俺の考えた通りだった」というような事を言うわけだけどね。
人生というのはそんなのんきなものじゃないです。今何をやらなきゃならんかという事で、年中追いかけまわされているわけだからね。結果が出てから「さて自分の考えを述べます」じゃ、間に合わないわけでね。だから仏道というのは結果論じゃないです。
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