正法眼蔵 古鏡 25
雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。
かつてはこの三つの鑑((天・地・人)を基準にして天下を治め、政治を行い、社会の基準とした。この宇宙の基準というものに対してはっきりした理解を持っている者が国王・皇帝という地位に就いた。
俗(世間)では「唐の太宗は天・地・人のうちの人を鏡として、天下が安らかであるか危ないか、天下が治まっているか乱れているかという問題については、事実がどうなっているかという事を知った」と言われている。
太宗は天・地・人と言う三つの鏡のうちの一つ、人と言う鏡を使って天下を治めたという事ができる。人を鏡として天下を治めたと言う話を聞いた場合、たくさんの知識を持っている人に昔からの様々の出来事に関連して質問したならば、どういう人を用い、どういう人を捨てたらいいかという事の区別も自然にわかってこよう。
それはたとえば太宗が臣下として魏徴や房玄齢と言う優れた人を得た場合であると考える。しかしながら太宗が人を鏡として政治を行ったと言う事は、魏徴や房玄齢を見つけ出したという事を言っているのではない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「古鏡」を見ますと、我々の妄想分裂を離れて、外界をありのままに直観的に見る存在として鏡をたとえているんですけれども、そうしますと、そこでは現実の絶体肯定のようなことが感じられるんですが、どうも僕は仏教というのは、
否定を通しての肯定、無分別の分別、真空夢想から真空妙有の転換がなければならないと思っているんですが、そこのところがどうも感じられずに、否定を通しての肯定ではなくて、いきなり肯定というふうに思われるんですが、そこはいかがでしょうか。
先生
頭の中で考えると否定とか肯定とかというものが大いに活躍するわけです。ただ頭の中での解釈で解決がつかなかったから、釈尊は坐禅をやられて否定も肯定も乗り越えてしまった。それが釈尊の教えの基本だと思います。
だから坐禅を何のためにやるかというと、否定とか肯定とかという頭の中で考えたものを乗り越えるためにやる。頭の中で考えた世界では否定とか肯定とかという事がありますけれども、それを乗り越えた状態が仏道だとみていいと思います。
質問
では鏡に自分を置いた場合に大鑑慧能禅師の言葉「鏡そのものには本来何物もその持ち物というものはない、どうして塵や埃がつくはずがあろう」と言われたところに自己を持って行った場合に、そこから歴史的社会における実在としての自己をどのように対処していくべきなんでしょうか。
先生
それは日常生活をそのまま真っすぐ生きるという事に尽きると思います。
つづく--
かつてはこの三つの鑑((天・地・人)を基準にして天下を治め、政治を行い、社会の基準とした。この宇宙の基準というものに対してはっきりした理解を持っている者が国王・皇帝という地位に就いた。
俗(世間)では「唐の太宗は天・地・人のうちの人を鏡として、天下が安らかであるか危ないか、天下が治まっているか乱れているかという問題については、事実がどうなっているかという事を知った」と言われている。
太宗は天・地・人と言う三つの鏡のうちの一つ、人と言う鏡を使って天下を治めたという事ができる。人を鏡として天下を治めたと言う話を聞いた場合、たくさんの知識を持っている人に昔からの様々の出来事に関連して質問したならば、どういう人を用い、どういう人を捨てたらいいかという事の区別も自然にわかってこよう。
それはたとえば太宗が臣下として魏徴や房玄齢と言う優れた人を得た場合であると考える。しかしながら太宗が人を鏡として政治を行ったと言う事は、魏徴や房玄齢を見つけ出したという事を言っているのではない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「古鏡」を見ますと、我々の妄想分裂を離れて、外界をありのままに直観的に見る存在として鏡をたとえているんですけれども、そうしますと、そこでは現実の絶体肯定のようなことが感じられるんですが、どうも僕は仏教というのは、
否定を通しての肯定、無分別の分別、真空夢想から真空妙有の転換がなければならないと思っているんですが、そこのところがどうも感じられずに、否定を通しての肯定ではなくて、いきなり肯定というふうに思われるんですが、そこはいかがでしょうか。
先生
頭の中で考えると否定とか肯定とかというものが大いに活躍するわけです。ただ頭の中での解釈で解決がつかなかったから、釈尊は坐禅をやられて否定も肯定も乗り越えてしまった。それが釈尊の教えの基本だと思います。
だから坐禅を何のためにやるかというと、否定とか肯定とかという頭の中で考えたものを乗り越えるためにやる。頭の中で考えた世界では否定とか肯定とかという事がありますけれども、それを乗り越えた状態が仏道だとみていいと思います。
質問
では鏡に自分を置いた場合に大鑑慧能禅師の言葉「鏡そのものには本来何物もその持ち物というものはない、どうして塵や埃がつくはずがあろう」と言われたところに自己を持って行った場合に、そこから歴史的社会における実在としての自己をどのように対処していくべきなんでしょうか。
先生
それは日常生活をそのまま真っすぐ生きるという事に尽きると思います。
つづく--
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