正法眼蔵 古鏡 24
雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答に関連して道元禅師の注釈は続きます。
黄帝が恭しく峒崆山に参り、真理を広成子に質問した。
広成子答えて言う。
鏡は我々が住んでいる世界の一切の根源であって、この鏡によって自分を治めると言う事が非常に長く昔から行われてきた。その鏡にも三種類の鏡がある。三種類の鏡とは天と地と人である。
これらの鏡というものはモノを見たり、モノを聞いたりする必要はない。気持ちを静かにしていると、その鏡に映る姿というものも自然に正しくなってくる。気持ちがそのように静かであって、汚れがないという状態であるならば、体を労することがない。
そして精神を動揺させるという事がないならば、長生きをする事が出来るであろう。
※西嶋先生解説
この点では、人間の健康というものと関係あるわけで、人間の体が長生きするかしないかという風な事は、一つの譬えとしては、ロウソクというものが譬えとしてとれると思う。最近はロウソクをあまり使わなくなったから、見かける事も少なくなったけれども、
ロウの棒の真ん中に芯を入れてそこに火をつけると炎が出てずっと燃え続けているというもので、お寺などでは時々見かける。このロウソクというものは芯が燃える事によって、ロウが溶けてそれが熱せられて炎を出すという形であるわけだけど、
ロウというものがちょうど周りが少し高くなって、真ん中が溶けている間はロウソクは比較的長く持つ。ところが脇で少し堤が切れていてロウがダラダラと外に流れると、普通にもつロウソクが半分、三分の一の時間でたってしまう。
人間の命と言うものも、ちゃんとバランスして普通に燃えておれば長持ちする。ところがバランスが壊れておると、せかせか、せかせか駆けずり廻るけれども、エネルギ-を無駄に使って早く終わりが来るという事もありがちである。そういう点では、体を長持ちさせるというのは、気持ちが落ち着いておる、体が落ち着いておるという事と関係がある。
―西嶋先生の話―
--つづき
なぜ我々は仏教を勉強するか?
坐禅は億劫だからと言ってあまりやる人はいない。たいていは目先目先で生きていこうとする。ほんのわずかの楽しみを見出してそれで満足する場合が多い。赤ちょうちんで飲んでいる時は実に楽しい。「やあ、これが人生だ」と思う。ところが翌朝になってみると辛くてしょうがない。
「いやぁ、ちょっと飲み過ぎたかなあ」「まあ会社に行かなきゃならないからとにかく行こう」と言う様な事で、無理に無理を重ねて出かけていく。午前中ぐらいは仕事が手に付かないという事はいくらでもあり得る。自分に与えられた人生の時間というものは、どんどん、どんどん経って行くわけです。
しかし、自分に与えられた時間をどう過ごすかという事は各人の自由です。アルコ-ルでちょっと気分を緩めて、何時間かを過ごしてしまうのも自分自身の自由。そんな事よりは、もう少し気の利いた事をやろうと自分自身の時間を別の事でつぶすという事も自分自身の自由。
どんな生き方をするかという事は自分自身の責任においてどうにでもやれる事。ただ、本当に自分自身が何をやりたいかと言う事、これは自分自身をつかまないと中々わからない。釈尊は自分自身というものをつかむ事を非常に大切に考えられた。
そして、この自分自身というものをつかむ事を我々に勧められた訳です。その自分自身というものをつかむ事の一つの修行法として古来から説かれているものが「坐禅」という事になるわけです。坐禅というものを一つの拠り所として人生問題を見直していくと言う事、それが仏道です。
「まあ、そんなややっこしい事は止めておきましょう、どうでもいいです」と言う人も勿論あるし、世間の人は大体そういう考え方をしている。だから、坐禅をやっているなんて言うと、「ああ、ちょっと変わり者だな」とか、「まあ、あんまり付き合わないほうがいいや」と言う様な事になりがちですけれども、各人が自分自身の人生を持っているわけです。
どういう生き方をしたらいいかという事についてはかなり重大問題がそれぞれの中に潜んでいるわけです。そういうことから眼を覆って「まあ適当に行きましょう」とか、「ま、時間がたてば」とか考えている人もいれば、どうもそういう点を少し詰めて見たいと言う人もいる。詰めてみたいという人にとってはやはり仏道の勉強が大切になってくる。そういう事になろうかと思う。
黄帝が恭しく峒崆山に参り、真理を広成子に質問した。
広成子答えて言う。
鏡は我々が住んでいる世界の一切の根源であって、この鏡によって自分を治めると言う事が非常に長く昔から行われてきた。その鏡にも三種類の鏡がある。三種類の鏡とは天と地と人である。
これらの鏡というものはモノを見たり、モノを聞いたりする必要はない。気持ちを静かにしていると、その鏡に映る姿というものも自然に正しくなってくる。気持ちがそのように静かであって、汚れがないという状態であるならば、体を労することがない。
そして精神を動揺させるという事がないならば、長生きをする事が出来るであろう。
※西嶋先生解説
この点では、人間の健康というものと関係あるわけで、人間の体が長生きするかしないかという風な事は、一つの譬えとしては、ロウソクというものが譬えとしてとれると思う。最近はロウソクをあまり使わなくなったから、見かける事も少なくなったけれども、
ロウの棒の真ん中に芯を入れてそこに火をつけると炎が出てずっと燃え続けているというもので、お寺などでは時々見かける。このロウソクというものは芯が燃える事によって、ロウが溶けてそれが熱せられて炎を出すという形であるわけだけど、
ロウというものがちょうど周りが少し高くなって、真ん中が溶けている間はロウソクは比較的長く持つ。ところが脇で少し堤が切れていてロウがダラダラと外に流れると、普通にもつロウソクが半分、三分の一の時間でたってしまう。
人間の命と言うものも、ちゃんとバランスして普通に燃えておれば長持ちする。ところがバランスが壊れておると、せかせか、せかせか駆けずり廻るけれども、エネルギ-を無駄に使って早く終わりが来るという事もありがちである。そういう点では、体を長持ちさせるというのは、気持ちが落ち着いておる、体が落ち着いておるという事と関係がある。
―西嶋先生の話―
--つづき
なぜ我々は仏教を勉強するか?
坐禅は億劫だからと言ってあまりやる人はいない。たいていは目先目先で生きていこうとする。ほんのわずかの楽しみを見出してそれで満足する場合が多い。赤ちょうちんで飲んでいる時は実に楽しい。「やあ、これが人生だ」と思う。ところが翌朝になってみると辛くてしょうがない。
「いやぁ、ちょっと飲み過ぎたかなあ」「まあ会社に行かなきゃならないからとにかく行こう」と言う様な事で、無理に無理を重ねて出かけていく。午前中ぐらいは仕事が手に付かないという事はいくらでもあり得る。自分に与えられた人生の時間というものは、どんどん、どんどん経って行くわけです。
しかし、自分に与えられた時間をどう過ごすかという事は各人の自由です。アルコ-ルでちょっと気分を緩めて、何時間かを過ごしてしまうのも自分自身の自由。そんな事よりは、もう少し気の利いた事をやろうと自分自身の時間を別の事でつぶすという事も自分自身の自由。
どんな生き方をするかという事は自分自身の責任においてどうにでもやれる事。ただ、本当に自分自身が何をやりたいかと言う事、これは自分自身をつかまないと中々わからない。釈尊は自分自身というものをつかむ事を非常に大切に考えられた。
そして、この自分自身というものをつかむ事を我々に勧められた訳です。その自分自身というものをつかむ事の一つの修行法として古来から説かれているものが「坐禅」という事になるわけです。坐禅というものを一つの拠り所として人生問題を見直していくと言う事、それが仏道です。
「まあ、そんなややっこしい事は止めておきましょう、どうでもいいです」と言う人も勿論あるし、世間の人は大体そういう考え方をしている。だから、坐禅をやっているなんて言うと、「ああ、ちょっと変わり者だな」とか、「まあ、あんまり付き合わないほうがいいや」と言う様な事になりがちですけれども、各人が自分自身の人生を持っているわけです。
どういう生き方をしたらいいかという事についてはかなり重大問題がそれぞれの中に潜んでいるわけです。そういうことから眼を覆って「まあ適当に行きましょう」とか、「ま、時間がたてば」とか考えている人もいれば、どうもそういう点を少し詰めて見たいと言う人もいる。詰めてみたいという人にとってはやはり仏道の勉強が大切になってくる。そういう事になろうかと思う。
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