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正法眼蔵 古鏡 23

雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。

そして24時間というものが我々の姿を映す鏡と同じような形のものでないならば、どうして過去を反省し過去を振り返るということが出来よう。そしてまた同じように24時間というものが、一つ一つ姿を示すという事がないならば、どうして我々は現在というものを反省することが出来よう。

いわゆる24時間というものが24枚の鏡があると考えても差し支えないし、過去から現在にわたる永遠の時間というものも、それは結局24時間の積み重ねでしかない。一日一日の積み重ねに過ぎない。黄帝の十二枚の鏡とはこの基本理念を示しているのである。

そしてこの十二枚の鏡に関する説話は仏教以外の人々の語るところである。この鏡と時間とが関連して考えられていると言う事は、雪峰禅師と玄沙禅師との問答で「中国人が鏡の前に来ると中国人の姿が現れる」と言う形の説明と同じである。

この事は時間の中における出来事と言う点では、仏教以外の人々であろうと仏道であろうと変わりがないという関係に立っている。



                ―西嶋先生の話―
--つづき
なぜ我々は仏教を勉強するか?
坐禅という修行法はそう難しい修行法ではない。しかし、そうやさしい修行法でもない。ただ、このやさしくもない難しくもない修行法を毎日続けていくと言う事が、自分自身を見直し、世界を見直し、自分の生活を見直し、人生を見直すと言う事につながる。

そういう生活をする事によって、迷いから離れる事が出来る。そういう生活をする事によって、執着から離れる事が出来る。迷いから離れ、執着から離れ得たならば、人間は自分自身の最高の人生を送り得る。これが釈尊の教えである。

仏道によって自分自身から離れるのではなくて、本当の自分自身を見つけ出して、その自分自身の生活を自由自在に送ると言う事が仏道。だから、仏道というのは堅苦しい事ではない。

坐禅をすると言う事は自分自身の人生を楽しくすると言う事になる。自分自身の人生を楽しくする最大の道と言えます。
                         つづく--
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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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