正法眼蔵 古鏡 22
雪峰義存禅師と玄沙師備禅師の問答について道元禅師の注釈は続きます。
古代中国の時代にいたと想像される黄帝が中国を支配していた時代に十二枚の鏡があった。家訓として伝わったところによると、天から授かったものであるという言い伝えがあった。また別の説として艇崆峒広成子(崆峒山の石室の中に隠居していた聖人)が黄帝に授けたものとも言われている。
なぜ十二枚の鏡があったかというと、一日が12時間(今日の24時間)に分かれている事に関係があるように思われる。また一年(十二か月)と十二枚の鏡とが見合っているようにも思われる。また年月が十二年経つと、それに対して十二枚の鏡がそれぞれ該当するということも考えられる。
昔から言われている事として、人の姿を映す鏡は聖人広成子にとってもその教えの根源であった。つまり自分の姿がどういうものかが分る事によって、自分がどうしていったらいいかという事も分ってくると言う事とも関係していて、広成子が何をしたらいいかという基準として鏡を使ったと言われている。
広成子はその鏡を黄帝に与えたのであるけれども、我々の住んでいるところの一日24時間というものも、鏡と同じような基準として考えられる。そしてこの鏡を基準にして、昔がどうであったかという事を勉強して今どうしなければならないかということを検討する場合に鏡が重要な役割をしている。
―西嶋先生の話―
--つづき
なぜ我々は仏教を勉強するか?
姿勢を正してジ-ッと坐っている時に、何が出てくるかと言うと自分自身が出てくる。いろんな余分な事は考えないでもよろしい。特別な音を聞かなくてもよろしい。特別な色を見なくてもよろしい。
考える事、感じる事、その両方から開放されると自分自身というものが出てくる。だから坐禅はいろんな考え方やいろんな感覚から脱け出す事が狙いです。そういう二つのモノから脱け出すと自分自身が出てくる。
どこに出てくるかと言うと、自分自身の体や心の中に自分自身というものが出てくる。そういう形で自分自身と仲良くなってくると、自分自身のおかれた周囲の世界というものがわかってくる。
これは、理屈でわかるのではない。それは、実感として、直感として、我々はどういう世界に住んでいるかと言う事も自然に滲み出てくる。そういう体験を通して人生を見直すと言うのが仏道です。
つづく--
古代中国の時代にいたと想像される黄帝が中国を支配していた時代に十二枚の鏡があった。家訓として伝わったところによると、天から授かったものであるという言い伝えがあった。また別の説として艇崆峒広成子(崆峒山の石室の中に隠居していた聖人)が黄帝に授けたものとも言われている。
なぜ十二枚の鏡があったかというと、一日が12時間(今日の24時間)に分かれている事に関係があるように思われる。また一年(十二か月)と十二枚の鏡とが見合っているようにも思われる。また年月が十二年経つと、それに対して十二枚の鏡がそれぞれ該当するということも考えられる。
昔から言われている事として、人の姿を映す鏡は聖人広成子にとってもその教えの根源であった。つまり自分の姿がどういうものかが分る事によって、自分がどうしていったらいいかという事も分ってくると言う事とも関係していて、広成子が何をしたらいいかという基準として鏡を使ったと言われている。
広成子はその鏡を黄帝に与えたのであるけれども、我々の住んでいるところの一日24時間というものも、鏡と同じような基準として考えられる。そしてこの鏡を基準にして、昔がどうであったかという事を勉強して今どうしなければならないかということを検討する場合に鏡が重要な役割をしている。
―西嶋先生の話―
--つづき
なぜ我々は仏教を勉強するか?
姿勢を正してジ-ッと坐っている時に、何が出てくるかと言うと自分自身が出てくる。いろんな余分な事は考えないでもよろしい。特別な音を聞かなくてもよろしい。特別な色を見なくてもよろしい。
考える事、感じる事、その両方から開放されると自分自身というものが出てくる。だから坐禅はいろんな考え方やいろんな感覚から脱け出す事が狙いです。そういう二つのモノから脱け出すと自分自身が出てくる。
どこに出てくるかと言うと、自分自身の体や心の中に自分自身というものが出てくる。そういう形で自分自身と仲良くなってくると、自分自身のおかれた周囲の世界というものがわかってくる。
これは、理屈でわかるのではない。それは、実感として、直感として、我々はどういう世界に住んでいるかと言う事も自然に滲み出てくる。そういう体験を通して人生を見直すと言うのが仏道です。
つづく--
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