正法眼蔵 心不可得・後 7
道元禅師の注釈は続きます。
この徳山禅師と老婆との間の話を考えてみるに、徳山禅師がかつて真実を解明していなかったと言う事は、今この説話を読んでみる事によってハッキリわかるところである。しかしながらこのとき老婆が徳山禅師をして何も言えないようにしたからと言って、老婆が本当に真実を得た人かどうかと言う事はまだ断定できない。
自分(道元禅師)がこの老婆の気持ちを推察してみると、とりあえず心不可得(心はつかまえる事が出来ない)という言葉を聞いて、心というものは実際にはないとのみ考えこのような質問をしたのであろう。
徳山禅師が一人前の人間であったならば、老婆の質問を検討した上でそれなりの返答をしたであろう。そして徳山禅師がそれなりの返事をすればそれに応じてまた老婆が何かを言ったであろうから、そこで老婆が本物かどうかという事が分かったであろう。
この老婆との問答をした時期においては、まだ徳山禅師が自分自身というものがよくわかっていなかったので、老婆が真実を得た人であるかどうかという事もわからずその事を知る由もないのである。また老婆がはたして本物であったかどうかという事を疑問に思う事については、それだけの理由がないわけではない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
仏道は安楽の法門という風に考えますと、いろいろクヨクヨする事ないと思いますね。
先生
そうそう、そうですよ。ただ考えまいとしてもどうしても考えちゃう。だから考えまい考えまいとして考えて苦労するという事もあるわけです。そこで坐禅が出てくる。足を組んで、手を組んで背骨を伸ばしていれば、考えようとしても考えられないということが救いなわけですね。坐禅の救いというのはそれですよ。
「こんなふうにぼんやりして、時間をつぶしてもったいない」という風に考える人もあって「あんなの時間つぶしだからやめてておこう」という人もあるけれども、人間は大体考えすぎるのです。朝から晩まで一所懸命考えている。だからたまには考えない時間があって初めて現実が見えるわけですよ。考えない時間がないと、考えに引きずり回されていつまでたっても現実が見れない。
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この徳山禅師と老婆との間の話を考えてみるに、徳山禅師がかつて真実を解明していなかったと言う事は、今この説話を読んでみる事によってハッキリわかるところである。しかしながらこのとき老婆が徳山禅師をして何も言えないようにしたからと言って、老婆が本当に真実を得た人かどうかと言う事はまだ断定できない。
自分(道元禅師)がこの老婆の気持ちを推察してみると、とりあえず心不可得(心はつかまえる事が出来ない)という言葉を聞いて、心というものは実際にはないとのみ考えこのような質問をしたのであろう。
徳山禅師が一人前の人間であったならば、老婆の質問を検討した上でそれなりの返答をしたであろう。そして徳山禅師がそれなりの返事をすればそれに応じてまた老婆が何かを言ったであろうから、そこで老婆が本物かどうかという事が分かったであろう。
この老婆との問答をした時期においては、まだ徳山禅師が自分自身というものがよくわかっていなかったので、老婆が真実を得た人であるかどうかという事もわからずその事を知る由もないのである。また老婆がはたして本物であったかどうかという事を疑問に思う事については、それだけの理由がないわけではない。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
仏道は安楽の法門という風に考えますと、いろいろクヨクヨする事ないと思いますね。
先生
そうそう、そうですよ。ただ考えまいとしてもどうしても考えちゃう。だから考えまい考えまいとして考えて苦労するという事もあるわけです。そこで坐禅が出てくる。足を組んで、手を組んで背骨を伸ばしていれば、考えようとしても考えられないということが救いなわけですね。坐禅の救いというのはそれですよ。
「こんなふうにぼんやりして、時間をつぶしてもったいない」という風に考える人もあって「あんなの時間つぶしだからやめてておこう」という人もあるけれども、人間は大体考えすぎるのです。朝から晩まで一所懸命考えている。だからたまには考えない時間があって初めて現実が見えるわけですよ。考えない時間がないと、考えに引きずり回されていつまでたっても現実が見れない。
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