正法眼蔵 心不可得・後 3
心不可得について道元禅師の注釈は続きます。
釈尊が説かれた宇宙秩序の眼目の所在(正法眼蔵)をはっきりと正しく伝承し、仏教界の諸先輩方の心と同じ心を理屈ではなしに、直接に具体的に保持する事の出来る正しい後継者から正し い後継者へと一系に伝えられて来た「正法眼蔵」を持っている人々を訪ねて、
その人々から教え を受ける事により、例外なしにその真実の究極、真実の姿というものが伝承され体そのものも 師匠と同じ体を受け取ると言う事になる。
したがって釈尊の説かれた教えが真実であるという事を信じてそれを勉強し、諸先輩の教えの 深いところまで立ち入って勉強する事をしないならば、これらの事を見たり聞いたり理解する事がなく、
これらの事について質問することも行われず、何か真実に関連して自分自身が言葉を述べるという境地には夢にさえ到達する事が出来ないということが実情である。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は「正法眼蔵」と言う九十五巻もの本を書いて、これでもかこれでもかと言う気がするのです。「ただ、黙って坐っていればそれでいいんだ」と言う事であれば「只管打坐」一言でいい気がするんです。
そこら辺はやっぱり頭がいいという事の証拠なんですかね、ゴチャゴチャ書いて、ああでもないこうでもないと言って引っ掻き回す様な話が出て来るのは。
先生
それはね「只管打坐」という事だけでいい訳だけれども、人間はそれでは納得しないんですよ、説明がないと。本来説明できないものを説明しようとするんだから、色んな言葉が要るわけです。そういう説明の努力として、この「正法眼蔵」と言う本が出来上がったと言う事が言える訳ですよね。
「正法眼蔵」の本が仮になかったとすると、我々は「只管打坐」がなぜ真実なのかが永遠に解らないないと言う事ですよ。我々は理屈で問題を考えるのが好きだから、そりゃ坐禅をやれば感じ取れるのかどうかわらんけれども、理論的に「こう言うならばこうだ」と言う説明がないと納得しないと言う面がある訳です。
そう言う理論的な面の納得の為に、この「正法眼蔵」が書かれたと言う問題がある訳です。
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釈尊が説かれた宇宙秩序の眼目の所在(正法眼蔵)をはっきりと正しく伝承し、仏教界の諸先輩方の心と同じ心を理屈ではなしに、直接に具体的に保持する事の出来る正しい後継者から正し い後継者へと一系に伝えられて来た「正法眼蔵」を持っている人々を訪ねて、
その人々から教え を受ける事により、例外なしにその真実の究極、真実の姿というものが伝承され体そのものも 師匠と同じ体を受け取ると言う事になる。
したがって釈尊の説かれた教えが真実であるという事を信じてそれを勉強し、諸先輩の教えの 深いところまで立ち入って勉強する事をしないならば、これらの事を見たり聞いたり理解する事がなく、
これらの事について質問することも行われず、何か真実に関連して自分自身が言葉を述べるという境地には夢にさえ到達する事が出来ないということが実情である。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は「正法眼蔵」と言う九十五巻もの本を書いて、これでもかこれでもかと言う気がするのです。「ただ、黙って坐っていればそれでいいんだ」と言う事であれば「只管打坐」一言でいい気がするんです。
そこら辺はやっぱり頭がいいという事の証拠なんですかね、ゴチャゴチャ書いて、ああでもないこうでもないと言って引っ掻き回す様な話が出て来るのは。
先生
それはね「只管打坐」という事だけでいい訳だけれども、人間はそれでは納得しないんですよ、説明がないと。本来説明できないものを説明しようとするんだから、色んな言葉が要るわけです。そういう説明の努力として、この「正法眼蔵」と言う本が出来上がったと言う事が言える訳ですよね。
「正法眼蔵」の本が仮になかったとすると、我々は「只管打坐」がなぜ真実なのかが永遠に解らないないと言う事ですよ。我々は理屈で問題を考えるのが好きだから、そりゃ坐禅をやれば感じ取れるのかどうかわらんけれども、理論的に「こう言うならばこうだ」と言う説明がないと納得しないと言う面がある訳です。
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