正法眼蔵 心不可得・後 2
心不可得について道元禅師の注釈は続きます。
仏教界において真実を得られた方々はいずれもこの世の一切というものは、心というものを頭の中において、それが有るとか無いとかというふうに理屈の上で考えたり追い求めたりする状態ではない。
我々の住んでいる宇宙の現実というものは意識は把握不能であるという事態を代々の真実を得られた方々が保持し、かつにそれに拠所してきたに過ぎない。このような境地をはっきりと摑みそれを保持していくためには、過去における真実を得られた方々がやってきたのと同じ体験をする事によってのみ正しく伝承されるのである。
つまり同じ体験をするとは坐禅をする事である。そのためには釈尊と同じような生活をして、何のとりえもない路傍の一本の草と同じ様な生活をする事である。
また達磨大師が説かれた皮・肉・骨・髄と同じ皮・肉・骨・髄を備えることであり、釈尊が霊鷲山において一本の花を手にもって瞬きされたとき、その釈尊の真意を了解してにっこりと微笑された迦葉尊者にと同じ境涯に入ることである。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
自分が死ぬまでの間に、こうして坐禅の修行が出来たという事は、私本当にありがたいのですが・・・。
先生
うん、うん。その通りだと思いますよ。だからね、理論を勉強する事は苦しみを重ねるんです。宗教問題を理屈だけで勉強していると苦しくて苦しくてしょうがない。ますます自分の行動の動きが取れなくなるという事情があると思います。で、そういう苦しさを何によって開放する事ができるかと言うと行いなんです。実行なんです。
だから坐禅というものにはそういう意味があって、坐禅がなぜ救いになるかと言えばそれは理屈ではなく行いだからです。その中身というものを「心身脱落」と言われている。つまり心が脱け落ちるとは理屈がいらなくなる事。体が脱け落ちるとは様々な体の間違った習慣から開放されると言う事でしかないわけ。
そういう開放された状態は行いによって得られる。そういう意味で坐禅が仏教思想の中でかなり大きな意味を持っている、そう言う事になると思います。だから仏教と言えども、坐禅がなければ救いにならないと言えると思います。理屈がわかって来ても人間は救済されないんですよ。
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仏教界において真実を得られた方々はいずれもこの世の一切というものは、心というものを頭の中において、それが有るとか無いとかというふうに理屈の上で考えたり追い求めたりする状態ではない。
我々の住んでいる宇宙の現実というものは意識は把握不能であるという事態を代々の真実を得られた方々が保持し、かつにそれに拠所してきたに過ぎない。このような境地をはっきりと摑みそれを保持していくためには、過去における真実を得られた方々がやってきたのと同じ体験をする事によってのみ正しく伝承されるのである。
つまり同じ体験をするとは坐禅をする事である。そのためには釈尊と同じような生活をして、何のとりえもない路傍の一本の草と同じ様な生活をする事である。
また達磨大師が説かれた皮・肉・骨・髄と同じ皮・肉・骨・髄を備えることであり、釈尊が霊鷲山において一本の花を手にもって瞬きされたとき、その釈尊の真意を了解してにっこりと微笑された迦葉尊者にと同じ境涯に入ることである。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
自分が死ぬまでの間に、こうして坐禅の修行が出来たという事は、私本当にありがたいのですが・・・。
先生
うん、うん。その通りだと思いますよ。だからね、理論を勉強する事は苦しみを重ねるんです。宗教問題を理屈だけで勉強していると苦しくて苦しくてしょうがない。ますます自分の行動の動きが取れなくなるという事情があると思います。で、そういう苦しさを何によって開放する事ができるかと言うと行いなんです。実行なんです。
だから坐禅というものにはそういう意味があって、坐禅がなぜ救いになるかと言えばそれは理屈ではなく行いだからです。その中身というものを「心身脱落」と言われている。つまり心が脱け落ちるとは理屈がいらなくなる事。体が脱け落ちるとは様々な体の間違った習慣から開放されると言う事でしかないわけ。
そういう開放された状態は行いによって得られる。そういう意味で坐禅が仏教思想の中でかなり大きな意味を持っている、そう言う事になると思います。だから仏教と言えども、坐禅がなければ救いにならないと言えると思います。理屈がわかって来ても人間は救済されないんですよ。
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