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正法眼蔵 心不可得・後 1

心不可得(後)の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

九十五巻本の「正法眼蔵」ではこの「心不可得」の巻は二回出てくる。 前の心不可得、後の心不可得と言われている。日付けが同じであって、一つは「衆に示す」これは道元禅師が実際にやられた説法と想像される。一つは「書いた」となっているので説法の原稿とも考えられる。しかし、この推定はいまだ充分な検討を経ない憶測であるから、詳細は後の学者の研究を待ちたい。

心不可得(後)の巻、本文に入ります。
心不可得(心というものは捉まえる事が出来ない)という状態は何かといえば、真実を得た人々そのものの実体である。そういう状態がすなわち「心不可得」という言葉の意味である。仏道の諸先輩はいずれも「心不可得」という事態を、最高にして均衡の とれた正しい真実として積極的に保持しかつこれに依拠して来た。

金剛経に言う
過去心不可得(過去の心もつかまえることが出来ない)・現在心不可得(現在の心もつかまえることが出来ない)・未来心不可得(未来の心もつかまえることが出来ない)と。

「過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得について道元禅師が注釈されます。
「金剛経」の中で言っている言葉は、仏道において真実を得られた方々がその日常生活のあり方として、あるいは坐禅をやっている時の境地として、現実に経験しているところの「心は捉まえる事が出来ない」と言う実体経験を自分自身が常に保持していると言う事の現実の現れである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
仏教でよく無我の境地と言いますが・・・・。

先生
自分が無いと言う事が無我であり、それが仏道だと考えるとかえって仏道そのものを誤解する。頭の中で考えて、我をなくすんだ、仏教とは無我だと言う解釈をする、また本にもよくそのような事が書いてある。

そんなことは人生の指針としては殆ど役に立たない。なぜ役にたたないかと言うと我々の現実の生活にそんなものは無い。自分というものをすり鉢の中に入れて一生懸命すって、何も残らない程すり込んだところが仏道だと言うような考え方は誤りです。

仏道において「無我」とは、この世の中を支配している秩序と食い違いがなくなる事。この世の中の秩序と食い違いがなくなれば自分自身が邪魔にならない。「俺が、俺が」という考え方がなくなる。そうすると、ごく自然の日常生活というものが行われる。

それは決して自分自身が無くなるということではない。手を動かし、足を動かし、一所懸命生きている自分自身と言うものはあくまでもある。ただ、周囲の世界と摩擦を起こさないと言う事、それが「無我」と言う事です。

釈尊が教えられ、また達磨大師が中国に伝えられて、道元禅師が日本に伝えられた「坐禅」を実際にやると自分自身が出てくる。その出てきた自分自身に従がって素直に行動するということが仏道。それ以外に仏道と言うものは無い。

頭の中で考えて「こうしなくては、ああしなくては」ということを考えていると、いつまで経っても仏道には入れない。坐禅に打ち込んでいれば仏道から出られなくなる。それが釈尊の教えであり、達磨大師の教えであり、道元禅師の教えと言う事になるわけです。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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