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正法眼蔵 心不可得・前 6

徳山禅師と餅売り老婆の問答について道元禅師が注釈されます。

この老婆と徳山禅師とが対面した説話をよくよく考えて見ると、その時、徳山禅師が真実というものをまだはっきり掴んでいなかったと言う事は、現在の時点からでもはっきりわかるところである。竜澤の崇信禅師に出合ってそこで修行をした訳であるけれども、修行をした後でもやはり同じようにこの老婆を恐れるような境地であったに違いない。

せっかく竜澤の崇信禅師に弟子入りして後も、やはり徳山禅師は仏道を学ぶ点においては遅れていて、体験を乗り越える、体験を超越するという境地の真実を体得した永遠の仏というわけにはいかない。

徳山禅師の相手をした老婆も徳山禅師の口をふさいで何も言う事が出来ない様にしてしまったけれども、しかしながらこの様な話があったからと言って、その老婆が本当に真実がわかっていた人かどうかはまだはっきりとは断定できない。

なぜ断定できないかというと、心は掴む事が出来ないという言葉を聞いて、その解釈として心というものは掴むことが出来ないもの、心というものはあるはずがないのというふうにばかり考えて、この様な問いを徳山禅師に対して発した。

徳山禅師が仏道の上で一人前になっていたならば、この老婆を見抜いてそれを打ち破るだけの力量があったであろう。徳山禅師が逆に老婆に質問を発して、その結果老婆が本物であるかどうかという事を見ぬく力があったならば、老婆が本当に真実を得た人かどうかはっきりしたであろう。

この問答だけから見ると、徳山禅師が本当に徳山禅師その人なっていたかという事も考えにくいので、老婆が真実を得た人であったかどうかという事もまだはっきりしない。このように徳山禅師も未熟ではあったけれども、老婆がはたして真実に達していたかどうかと言う事も簡単には断定できない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
ある宗教関係の人と話をした時に心の中で思った事は行った事と同じだとか、心であいつ死んでしまえと思えば人殺しと同じだとか言うんですが、仏道の立場からどの様に理解するのが正しいんでしょうか。

先生
頭の中で考えた事と行いとが同じだと言うのは仏教思想じゃないです。他の宗教では心の動きを重要視するから、頭の中で考えた事は実行した事だという捉え方をするんです。これの典型的な例は聖書の中に女性を見てやましい心を起こしたならば実行した事と同じだと言う思想があるんですよ。

しかし仏教ではそう考えません。気持ちの上で起こすのと、手と足を動かして実行行為に及ぶのとは違うと言う考え方です。それが仏教思想の救いですよ。
    
他の宗教思想のように頭で考えたら全部悪い事をしているんだと言うふうになったら、人間にとって逃げ場がないんですよ。そんなものではない、人間の行いを中心にしてやるかやらないかが重要なんだというところに仏教思想の特徴がある。

ただ明治維新以降、日本の仏教学もキリスト教の考え方を中心にして仏教を理解したから、精神的に何らかの想念が生まれれば、それは実行した事と同じだと言うけれども、それはキリスト教的解釈ですよ。仏教ではそういう考え方じゃないと言う事が基本的な捉え方です。

質問
ちょっと皮肉な表現ですが、もし心で思った事が実行した事と同じだとすれば、例えば毎日坐禅をするというのも、実際にしていなくても思っていればした事になるんで、非常に便利だなあと思ったんですけど。(笑)

先生
いや、そんな事はありえない。(笑)仏教思想はその点では実行する事に救いがあると言う考え方です。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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