正法眼蔵 心不可得・前 7
徳山禅師と餅売り老婆の問答について道元禅師が注釈されます。
大宋国(中国)における僧侶達が、徳山禅師が老婆に対して答える事ができなかった事をただ訳もわからずに笑い、老婆が途轍もなくよく出来たと誉める事は非常に頼りない話である、非常に愚劣な話である。
徳山禅師がしっかりしていなかった事はハッキリしているけれども、老婆の方もハッキリしていたかどうかそれはわからない。なぜかと言えば、老婆を疑うだけの理由がないわけではない。
この老婆と徳山禅師とが出合い、その徳山禅師が何も言うことが出来なかった際に老婆は徳山禅師に対して 「和尚は何も言う事が出来ない。 それならこの私に同じ質問をしたらよろしい。そしたら私が和尚のために本当のことを教えてやりましょう」と 。
老婆がこの様に言ってそれに対する徳山禅師から質問を受けた後、徳山禅師に向かって言 った言葉が妥当であるならば、そこで始めて老婆がまさに本物であったと言う事がはっきりす るであろう。
老婆は徳山禅師に質問こそしたけれども、自分の考えを言うことまではしていなかった。昔から仏道に関する話をずっと勉強してくると、かつて一つも真実の言葉を口にしたことのない人を真実を得た人ということは未だかつてあったためしがない。
自分自身で「悟った、悟った」と言って見ても、何の益も無い事はかつての 徳山禅師の様子を見ていればそれでわかる。また何の言葉も発してない人を真実を得た人として認めることが出来ない事は、この老婆の例によって知る事が出来る。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は徳山禅師のことを「文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった」と批評しています。他人の色々な事が気になる人はノイロ-ゼ系統の神経症を持っている人だと思うんです。道元禅師も神経症なのかなという感想を持ちました。
本当に只管打坐であるならば、その様な事を言わなくていいような気がするんですが。どっかの山の中にこもって三十年もいたという人もいますけれども、道元禅師はそうでもないようだし、それでこういう「心不可得」という文章をお書きになっている。この辺の真意はどこにあるんだろうかなと・・・。
先生
それは道元禅師という方は仏教思想とはこういう思想だという事についての明確な判断があるんです。仏教思想の一つの特徴は単なる理論ではない、むしろ体の状態、心の状態、現実そのものが仏道なんだという思想であるわけです。
だから経典を読んだり説法を聞いたりして頭の中だけで仏教を理解しようとする人々に対し、それは仏教とは無関係という事を主張しておられる。ここで「徳山禅師は文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった」と言っておられるのは、仏教の実体には爪の先ほども触れていなかったという判断です。これが一つ。
それから「只管打坐」という事も仏教哲学を道元禅師の立場から見られた場合の主張なんだけれども、今の問題と全く同じ事であって、経典を読んで「ああ、わかった、わかった」という事では仏教というものとは全然関係がないという主張なんです。
仏道とは何かといえば、足を組み、手を組み、背筋を伸ばして坐っている状態そのものという思想があって、只管打坐というものも気になるとか気にならんとかと言う事ではなしに、仏教思想と言うのはこれだという事の明確な主張ですよ。
だから只管打坐というのは道元禅師が看板に書いて、仏教の本質はこれだという事を札に書いてぶら下げたようなもんです。気になるとか気にならんとかという事よりも、仏道の実体はこれだという主張を四つの字に書いて「只管打坐」と言われたというそういう問題です。
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大宋国(中国)における僧侶達が、徳山禅師が老婆に対して答える事ができなかった事をただ訳もわからずに笑い、老婆が途轍もなくよく出来たと誉める事は非常に頼りない話である、非常に愚劣な話である。
徳山禅師がしっかりしていなかった事はハッキリしているけれども、老婆の方もハッキリしていたかどうかそれはわからない。なぜかと言えば、老婆を疑うだけの理由がないわけではない。
この老婆と徳山禅師とが出合い、その徳山禅師が何も言うことが出来なかった際に老婆は徳山禅師に対して 「和尚は何も言う事が出来ない。 それならこの私に同じ質問をしたらよろしい。そしたら私が和尚のために本当のことを教えてやりましょう」と 。
老婆がこの様に言ってそれに対する徳山禅師から質問を受けた後、徳山禅師に向かって言 った言葉が妥当であるならば、そこで始めて老婆がまさに本物であったと言う事がはっきりす るであろう。
老婆は徳山禅師に質問こそしたけれども、自分の考えを言うことまではしていなかった。昔から仏道に関する話をずっと勉強してくると、かつて一つも真実の言葉を口にしたことのない人を真実を得た人ということは未だかつてあったためしがない。
自分自身で「悟った、悟った」と言って見ても、何の益も無い事はかつての 徳山禅師の様子を見ていればそれでわかる。また何の言葉も発してない人を真実を得た人として認めることが出来ない事は、この老婆の例によって知る事が出来る。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は徳山禅師のことを「文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった」と批評しています。他人の色々な事が気になる人はノイロ-ゼ系統の神経症を持っている人だと思うんです。道元禅師も神経症なのかなという感想を持ちました。
本当に只管打坐であるならば、その様な事を言わなくていいような気がするんですが。どっかの山の中にこもって三十年もいたという人もいますけれども、道元禅師はそうでもないようだし、それでこういう「心不可得」という文章をお書きになっている。この辺の真意はどこにあるんだろうかなと・・・。
先生
それは道元禅師という方は仏教思想とはこういう思想だという事についての明確な判断があるんです。仏教思想の一つの特徴は単なる理論ではない、むしろ体の状態、心の状態、現実そのものが仏道なんだという思想であるわけです。
だから経典を読んだり説法を聞いたりして頭の中だけで仏教を理解しようとする人々に対し、それは仏教とは無関係という事を主張しておられる。ここで「徳山禅師は文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった」と言っておられるのは、仏教の実体には爪の先ほども触れていなかったという判断です。これが一つ。
それから「只管打坐」という事も仏教哲学を道元禅師の立場から見られた場合の主張なんだけれども、今の問題と全く同じ事であって、経典を読んで「ああ、わかった、わかった」という事では仏教というものとは全然関係がないという主張なんです。
仏道とは何かといえば、足を組み、手を組み、背筋を伸ばして坐っている状態そのものという思想があって、只管打坐というものも気になるとか気にならんとかと言う事ではなしに、仏教思想と言うのはこれだという事の明確な主張ですよ。
だから只管打坐というのは道元禅師が看板に書いて、仏教の本質はこれだという事を札に書いてぶら下げたようなもんです。気になるとか気にならんとかという事よりも、仏道の実体はこれだという主張を四つの字に書いて「只管打坐」と言われたというそういう問題です。
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