fc2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 心不可得・前 3

道元禅師の注釈注釈は続きます。

経師(経典を読んでその意味を理解しようとしている人) 論師(仏教哲学を理論の上だけで論じている人) 声聞(理屈だけで仏教を理解しようとする人)  縁覚(自然の環境の中で仏教を理解しようとする人) これらの人々は、まだ夢にさえ見た事のない様な状況にあるのである。

その様な事態の実例は身近にある。その実例とは何かというと、臨済系の有名な師匠である徳山宣鑒禅師がかつて「金剛般若経」をすっかり読みこなした「金剛王」と自分で言って自慢していた。

特に青竜寺の僧侶が作った金剛経の注釈書に対する理解が優れていると言われていた。さらに十坦に及ぶ書物を著作したと言われており、徳山宣鑒禅師と同等に扱うことの出来る様な経典の注釈をした人はいなかったようにみえた。

しかしながら、自分(道元禅師)の立場から見ると、ただ文字を追い求める事によって仏教を勉強する人々の末流にすぎなかった。



         ―西嶋先生の話―

今日世間一般で説かれておる仏教というものを考えてみますと、実に難しいことが説かれている。しかも何を説いているかよくわからないという点が一番困る。仏教という事に関連して沢山の方々が沢山の事を述べておられるけれども、その言っておられる内容がさっぱり意味が分からないという点に、今日仏教が抱えている非常に困った状況があるわけであります。

人間はどうしても理想に走りすぎて、人間では中々達成できないような浮ついた考え方で生きている人もいる。しかしそういう浮わついた人々を眺めて批判する考え方の人々になると「得をすればいい、損をしなければいい」という事だけに生きていく。そうすると人間として生きていっても何のために生きているのかよくわからないというふうな生き方の人もある。

釈尊は我々の生きている世界そのものがどうなっておるか、実体験を基礎にして人生を生きていくことが大切だという主張をされた。で、そのために必要なのは坐禅という修行法であると。

そして一番最初の理想を中心とした考え方を「苦諦」と呼ばれ、物を中心とした考え方を「集諦」と呼ばれ、仏教の立場を「滅諦」という言葉で表現され、一番最後の坐禅の修行を「道諦」という言葉で表現された。
                                つづく--


いつも訪問していただきありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。
 
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

最近のコメント

カテゴリ

FC2カウンタ-