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正法眼蔵 心不可得・前 2

心不可得の巻、本文に入ります。

釈尊が言われた
過去心不可得・現在心不可得・未来心不可得 (金剛般若経より引用)

釈尊が言われた言葉にについて道元禅注釈注釈されます
過去であろうと、現在であろうと、未来であろうと、心と言うものは捉まえる事が出来ないと言う事が、釈尊以来代々の祖師方が勉強された結論である。

その方々がどういう生き方をして来たかというと、心というものは捉まえる事が出来ないとはっきり納得し、自分自身が住むほら穴はしっかり自分のものとして使ってきた。自分の住む洞穴とは何かというと、心とはわからないものという確信を持って堂々と生きてきた事である。

我々は日常生活において瞬間瞬間に生きているのであり、現在の瞬間においてあれこれと考えているけれども、その考えている主体というものも、これが心という形で捉まえる事が出来るものではない。

我々は日常生活の二十四時間において全力を尽くして生きているのであるけれども、二十四時間の生活というものも心というものから考えてみると、それは掴めるものではない。仏道修行をして釈尊の教えの真実に到達した人は、心は捉まえる事が出来ないと言う事を理解した。

釈尊の教えの真実に到達していない人は、心は捉まえる事が出来るか出来ないかという事について疑問を持つ事はない、それに対して意見を述べる事もないし、そういう問題がある事を見たり聞いたりしないという事が実情である。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問 
智慧に関する事だと思うのですが、よく世間では、「あの人は先見の明がある」とか 「先見の明があった」とかと申しますけど、仏教的にこの「先見の明」と言うのはどう解釈したらよろしいのでしょうか。

先生
先が読めるという事も智慧があるかないかと言う事に関係しますね。ただ先の事が読めるよりも現在どうしたらいいかで的確な判断の出来る方がより大切だという事は言えますね。将来ああなるだろう、こうなるだろうと言う判断よりも、今日何をやったらいいか、今日何をやらなければならないかと言う事が人間にとってはるかに大切だと思います。

常識的に言うと、あの人は先が見えると言う事でその方が評価されますがね。 先が見えるということは当てにならないという事でもあるわけです。この世の中、現実はどう変わるかわからず、明日はどうなるか明後日はどうなるかと言う事はそう的確には誰も読めないわけです。そうすると、先が読めるという事よりも、今何をしたらいいか、今どうしたらいいかと言う判断の方がはるかに大事だと言えます。

質問
「熟慮断行」と言う事を申しますが、・・・。

先生
十分に考える事が必要でないと言う事ではない。学問を勉強してどういう事をやったら、どういう結果になると言う事も大切な事です。そういう科学の積み上げが無ければ、人類は月へ到達すると言う事も出来ないわけです。「熟慮断行」は長い時間をかけての目的に向かっての努力と言う事になろうかと思います。

ただ、もっと厳密に我々の日常生活を詰めて考えるならば、今どうするか、今どうするかと言う問題の方がはるかに現実的に迫ってくる。だから、それにどう対処するかということが一番の関心事になる。そういう事でもあるわけですよね。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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