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正法眼蔵 法華転法華 38

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。

釈尊が亡くなられてから四、五百年後に小乗仏教に対して大乗仏教が説かれた。「妙法蓮華経」も大乗仏教が説かれた時代に生まれた経典である。経典の中にも「今日、釈尊が大乗仏教を説く」と書かれていて、その様なあり方で宇宙の実体に触れていくいき方があるのである。

このように宇宙というものは様々の形で活躍いるのであるけれども、現に宇宙がこの様に活躍している事態においては、人はその事を感じる事も知る事も出来ない。

五百塵点劫という無限に長い時間も、その内容に立ち入って検討してみるならば、ほんの一瞬一瞬の宇宙の活躍でしかない。そのことは別の言葉で言うと、我々自身が真心を持って瞬間瞬間を生きていく事に他ならない。それが釈尊の生き方と全く同じ生き方と言えるのである。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
日本流通産業新聞に載っていた先生の「心」についての記事を拝見しました。 誠に立派な記事でありまして、この中で先生はスポ-ツをおやりになった事を書いているのですが、これは仏道とはどの様な関係になりますか。

先生
何かを一所懸命やる事と仏道とは非常に近いんです。坐禅と言うのはそう言う一所懸命にやる事の一番単純な一番余分のない形と言う事に過ぎない訳です。人間は頭がいいから、朝起きると物事を考え寝るまで考えている訳です。夜寝てから考えている人もいる。

そう言う頭の働きから解放される時期が我々の日常生活にはある訳です。それは美味しいものを食べている時とか、音楽を聞いている時とか、綺麗な景色を見ている時とか、感覚的に外界の刺激を受け入れている場合もモノを考える事態から解放されている訳です。
   
だから我々の日常生活と言うものは、ものを考える事と感覚的な外界の刺激美味しいものを食べたり音楽を聞いたり、と言う事との交互の変化で成り立っている訳です。それだけかと言うと我々の日常生活にはもう一つあるんです。

それは頭で何かを考えているのではないし、外界の刺激を受け入れているという事でもないし、それは何かと言うと一所懸命に何かをやっているという事。

仕事をやっている、庭いじりをやっている、運動をやっている、絵を描いているとか色々な形の違いはあるけれども、頭で何かを考える事に追いまくられている状態でもないし、そうかと言って感覚的な刺激にしがみ付いている時でもない。その様な時間が我々の日常生活にある訳です。

そういう時間を基準にして組み立てられた哲学が仏教哲学。釈尊はものを考えるでもなしに感覚的に囚われた状態でもない時間が我々の本当の人生の姿であり、そう言うものを出発点にして一つの宗教一つの哲学が成り立つと言う主張をされた。

だから我々がなぜ坐禅をするかと言えばつまらん事は考えるのはやめるという事。感覚的に刺激を受け入れる状態から離れるという事。 そういう点では坐禅は何かを得るという事ではなしに、様々な普段我々が囚われているものから脱け出すと言うところに坐禅の意味がある訳です。

道元禅師が坐禅の事を「身心脱落」と言われたのはそういう意味です。

※雑記
最近、野菜や果物を頂き残さず食べるので少し太り気味です。毎日風呂に入る前に体重を測り始めて20年位になります。記録を見ると1キロ以内の増減なのでまあ良いか。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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