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正法眼蔵 法華転法華 36

「心悟れば法華を転ず」について道元禅師の注釈は続きます。

塔の中の古仏が霊鷲山に現れる場合には、霊鷲山そのものが古仏の国土として永遠の時間において現れるのである。この地上に現れるとか塔の中に入るとかという関係も凡夫の常識的な考え方で、宝塔の中は途轍もなく尊く、この地上の世界がそれほど価値のないものという見方をしてはならない。

この世の中で一所懸命生きていくならば、釈尊や法華経の中に説かれている仏と全く同じ境涯で生きる事が出来るということを勉強すべきである。また永遠の世界に入るという事は仏に備わっているところの装飾を具体化したものである。

法華経に説かれた塔の中、仏の前、価値の高い塔そのもの、虚空というものも、釈尊が形成された教団と同じと考えるべきではない。宇宙と別々のものが一つになるという事でもない。その一部分という事でもない。全部が全く同じという事でもない。

これは宇宙のどこに位置としているか、自分の状態がどんなであるかという事が問題なのではなくて、つまらない事を色々考えないで生きていく事が大事なのである。ある場合には釈尊と同じような姿になって真実の教えを説き、ある場合にはこの現実の具体的なありのままの姿を現して人々のために真実を説くといういき方もある。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
仏道は難しい難しいと言いますけど本当はどうしようもなく易しいんだと思います。 私たちが勉強してきたものはみんな難しかったから勉強は難しいと信じ込んでいる.。私自身はあまり平凡な事を改めて言われると、それを難しくとろう難しくとろうとしているから難しくなってしまうのではないかと・・・。

先生
まさにその通りですよ。ですから仏教を難しくするのは坐禅をしないからですよ。坐禅をしますとこのくらい簡単なものはない。坐禅をしている以外に仏道なんていうものはあり得ない。

ただ坐禅をしていればいいというだけの問題。ところが坐禅をせずにさて仏道を理解しようと思ったら、何万冊、何百万冊と本を読んでも絶対わかるものじゃない。仏道というのはそういうものだという事がハッキリあると思います。

だから坐禅をしている限りこんな易しいものはない。わかるもわからないもないわけで、脚を組み、手を組み、背骨を伸ばしておれば自分自身と仏道とは別ものではないという事情が直ぐ出てくるわけです。

そういうものが仏道であるし、それが釈尊の教えだという事が言えると思います。

※雑記
午前中は曇ってたので洗濯がよく乾くか心配してたが、3時過ぎには日も差してきて暑いです。やっと秋の気配を感じるようにになったと思ったのに、明日からまた暑くなるなると言う。秋の気配を感じられるのはまだ先かな。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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