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正法眼蔵 仏祖 1

「仏祖」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話です。

表題の仏祖と言う言葉の説明ですが、仏と言うのは何かというと、真実を得た人と考えていいわけです。よく神、仏と言うふうな言葉があって、神様に似たようなものが仏さんだと、人間より上のものと言う考え方があるけれども、仏道ではそういう考え方をしない。

仏と言うのは人間が完成された姿。だから人間が人間になったものを仏という。人間が人間以上のものになったのが仏ではない。人間は人間以上のものにはなれない。本来の人間になった人を仏と言う。

釈尊がそういう教えを説き始めて、それから弟子へと代々伝わって、仏道は今日に達しておるわけです。だからそういう点では、釈尊以来代々の祖師方があるいは代々の仏教徒が、それぞれ仏道修行をして、本来の人間になって、

その本来の人間が次から次へと伝えて今日に到達したという考え方が出来るわけです。ここで特に仏祖として挙げておられるのは、釈尊以来仏教教団と言うものが出来上がって、その仏教教団の最高の指導者が代々その任務を継いできた。
            続くーー



              ー西嶋先生の話ー

仏教の言葉で智慧と言う言葉があります。智慧とは普通一般に考えられている様にものを考える力と言う事ではない。我々が日常生活で色々な判断をする場合に正しい判断の基礎になるものを智慧と言う。生きていく上において、智慧があるかないかという事は大切な事。

我々は朝から晩までどう生きたらいいかと言う事で、瞬間瞬間に判断を迫られている。そういう判断をする場合に、正しい判断をする基礎が智慧と言う事です。我々が坐禅をやっている時に、智慧というものが自然に出て来るという説明の仕方も出来るわけです。

そういう点では正しい智慧を持つ事が大事である。この事が我々が毎日坐禅をしなければならない事と関係があるわけです。なぜ坐禅をしている時に智慧が出て来るかと言いますと、坐禅をしている時は体を正しい状態に置いている時と言えるわけです。そして体を正しい状態に置いていると心の働きも正しい状態になる。

これが仏教の考え方です。つまり仏教では物と心、体と心というものが一つのものと言う考え方が基礎になるわけです。だから体を正しい状態に置いておけば正しい智慧が出て来る。その様に考えるわけです。また事実もそうなっているわけです。

西洋流の考え方では心と物とを別のものと考える。心と体はまったく別のもの、と言う考え方が西洋流の考え方の基礎にあるわけです。この心と体が別と言う考え方は、西洋の考え方では古い時代にはなかったと言う事が言えると思います。つまりギリシャの時代には今日でも残っている諺に「健全な精神は健全な肉体に宿る」と言う諺があります。
                                つづく--

※雑記
今朝は昨夜の雨でいつもより涼しい朝でした。日中も気温がいつもより低くお客様専用駐車場をきれいにしました。なるべく自分で出来ることは自分でするようにしています。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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