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正法眼蔵 山水経 39

山水(自然)について仏教の立場でどう考えたらいいかという道元禅師の説示は続きます。

山というモノの実体を勉強するならば、山というモノについて仏道修行をした事になる。 このような山とか川、あるいは自然を勉強する事によって、賢人が生まれ聖人が生まれるという結果を生むのである。      

西嶋先生解説 
ここで道元禅師は我々の仏道修行と言うものも、山とか川とか自然を舞台として行われるのであるから、西洋思想のように自然と人間とは別々の世界であって、人間はその自然を征服してそれを利用するという考え方ではなしに、

自然そのものが仏道修行の舞台であるという考え方で自然を捉え、その自然がどういうものであるかと言う 事を勉強するべきだと説かれたのです。だからこの「正法眼蔵・山水経」は、仏教における自然観、自然に対する見方を説いている巻と言えようかと思います。

          「正法眼蔵一顆明珠」
          1240年旧暦10月18日
          観音導利興聖宝林寺において人々に示す




          ー西嶋先生にある人が質問したー
    --つづき
質問
先生はもう初めから仏道人なんですよ、だから仏道人ならわかるんですよ「正法眼蔵」はですね。ところが世間一般の私共、世間一般の人たちは誰が聞いても「正法眼蔵」は難しいと言う人が多いです、数から言うと。

先生
それでね、なぜ「正法眼蔵」が難しいって感じるかと言うと、一つの大きな原因は狙いが違うんです。釈尊のお説きになったのは現実主義です。ところが宗教を勉強しようとする人々はたいていが、宗教は理想主義の考え方だと思ってそこに狙いをつけて仏教書を読むから初めから狙いが違っているんです。

だから釈尊の教えは現実主義だということを頭において「正法眼蔵」を読むと「なるほどそうか」という事がはっきりわかるという事情があると思います。私が臨済宗の考え方を傍から見た場合に理想主義哲学の一種だと思います。釈尊の教えではないという見方です。だから理解しやすいと。「目標はあの星の姿だ。あそこに向って一所懸命に進め」と。

これは説明しやすいんですよ。「なるほどそんなもんか」と思ってみんな一所懸命やるわけですよ。何十年かかっても星に行き着かないんですよ。その事は人に迷いを与えるだけであって人を救済するだけの力がないんですよ。まあこういう事を言うと大変申し訳ないわけだけれども、私は腹の底ではそう思っています。

※雑記
街から離れた小高い丘に住む人が来店して言う。
「引っ越してきた頃は車を運転して街に買い物に行っていた人たちが、年をとって車に乗らなくなり買い物に困っていた。最近移動ス-パ-が車で来てくれるので助かってるみたい。私はまだ運転も出来るし仕事もしているし、当分お世話にはならない」と。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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