fc2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 山水経 29

「水は地に降ってきて川をなす」に関連した道元禅師の注釈は続きます。

竜や魚にとって水は不安定で常にどこかに流れて行ってしまうという事など考えずに生活しているのであろう。もし傍で見ている人間が竜や魚に向かい「お前が現に宮殿として眺めているのは、実は流水なのだ」と言ったとしよう。

それは我々人間が山は流れるものと言う言葉を聞いて驚くのと同じようなものであって、竜や魚も即座にびっくりして首を傾げるであろう。

しかし次には竜や魚が宮殿の手すりや階段や戸外の柱は流動的なものであって固定的なものではないと言う主張をそのまま肯定する場合もあろう。この様な考え方を静かに何回となく考えてそれを保持し続けていく必要がある。



               ※西嶋先生の解説
     --つづき

そうすると、それが丁度当たる時もある。「いやあ、確かにあれは当たった」と言う様な時もあるが、世の中というのは必ず表と裏とがあるから、表に適用されて丁度当たった理論と言うのは、裏が来ると全く反対で失敗の原因になってしまう。
                                       
だからどういう場面が来ても常に適合して常に役立つ理論というものは、流動的で二つの面を必ず持っていなきゃならん。 ところが、たいていは片面だけの理論で押そうとするから、いい時もあるけれども悪い時もあるというのが世間における殆んどの実態。

宇宙にはどうにもならない原則というものがあるから、 一つの考えで「やれ行け、それ行け」とどんどん行って行けるまではいい。しかし、どうしても行けない時期が必ず来るもの。その時にもう一歩先の理論を知っておれば、この辺で方向転換しなくてはいけないなと言う事で方向転換するわけだけれども、

そういう余裕がなければ、岩があろうが何であろうとゴツン、ゴツンと頭をぶつけて「通れない方がおかしい!」と言う様な事で、結局立ち往生してしまうという事もあり得る。 そういうことからすると、この現実の世界に通用する理論と言うものが確かにあるんだけれども、その理論というものは単純ではない。

かなり立体的な複雑な理論。 その立体的な複雑な理論を説かれたのが釈尊ということ。だから釈尊の教えというのは難しいけれども、身についてしまうとどういう場面にでも適用ができる。 そのことが我々が「正法眼蔵」を勉強しておる事の理由でもある。その事が我々が坐禅をする事の理由でもある。

※雑記
お客さんから家庭菜園で作った野菜を頂くことが多い。本当に有り難い。お陰様で店が暇なときはいつもお勝手で調理をしています。今日は蕗の皮をむき茹で下準備が終わったのでこれから味付けです。


いつも訪問していただきありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

最近のコメント

カテゴリ

FC2カウンタ-