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正法眼蔵 山水経 28

「水は地に降ってきて川をなす」に関連した道元禅師の注釈は続きます。

仏教で無想天(ものを考えない素晴らしい境地)、あるいは阿鼻獄(無限の苦しみを受ける地獄)と言うものを考えているけれども、無想天が上で阿鼻獄は下と決めつけるわけにはいかない。

こんな素晴らしい世界はないと感じる時でも宇宙の中の出来事でしかない。地獄の中にいるような苦しみもまた宇宙の中の出来事でしかない。従って水についてもその見るものの立場によって色々である。

たとえば竜や魚が水を見る場合には、自分達が住んでいる動かない途轍もない素晴らしい宮殿だと考えるだろう。それは人間が人間の世界で素晴らしい宮殿を眺めて、その大きさや堂々とした姿に関心しているのと同じ事であろう。



          ※上記について西嶋先生の解説

ここで書かれていることは我々の常識からするとかなり難しい。難しいと言うか普段はこういうことは感じない。我々の住んでいる世界は変わりやすいという事は日常生活をよく見てればすぐわかること。

数十年前日本が空襲で焼け野原になった時、焼かれなかったところは別として東京のほとんどが全く焼け野原になってしまった。その時には今日の様に、鉄筋コンクリ-トの建物が建ち車が走り回ると言う時代はとうてい想像できなかった。

その事は何にでも言える事で十年もたつと赤ん坊も十歳になってしまう。そうすると学校へ行って、帰ってきて「お腹が空いた」と言ってみたり、親に反抗してみたり、色々な変化がある。

そういう点では商業の世界も同じ。去年売れた商品が今年も必ず売れる筈だと言う訳にはいかない。売れない方がおかしい、買わない方がおかしい、なんて言ってみても売れなければしょうがない。いくら積んどいても買ってくれなきゃどうにもならんという事になると、商売の方も何が買ってもらえるかという事で考えていかざるを得ない。

小売店としては買われそうなものを選んで店に並べて置く。売れたら補充するというふうな事になる。卸商としても頭の中だけで考えてこれは絶対に売れる、売れなきゃおかしい、どうしても売って見せるということで無理に小売店に売り込んでみても、本当の最後のお客さんが買ってくれなければ何か月か経つと戻ってきてしまう。

それでは商売にならないと言う問題があるから、我々の人生の全てにはこういう流動的な非常に捉えにくい問題があるという事を常に考えてなきゃならん。ところがこういう考え方はわりあい世間では一般に行われない。たいてい決まり文句で「これが本当ですよ」と言う様なことを大抵の人が言う。
                                   つづく--  

※雑記
小四の孫(男の子)と電話で30分くらい話した。孫は話が好きで相槌を「うん、うん、すごいね、おばあちゃんも子供の頃そうだったよ」とか話は尽きない。「お母さんと夏休みの予定とが話したいからお母さんに変わって」言って、今度は娘と話が弾んで30分ぐらい話した。娘家族も元気でやっている様子が分かり「ああ、よかった」


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コメント
803: by roughton on 2023/07/21 at 12:58:52 (コメント編集)

道元禅師の正法眼蔵は漢語で書いてありますから、それを口語にしたときに、すでに解釈やその翻訳者の見識が入ってしまいます。そこが正法眼蔵を学ぶ上でのおおきな難しい要因になっています。ちなみに、私が読んでいる口語訳には、以下のようになっています。
『いわゆる仏道の上下を多学するなり、いわゆる地水のゆくところを下とするなり、下を地水のゆくところとするにあらず。法界かならずしも上下四維の量にかかはるべからざるけれども、四大五大六大等の行く処によって、いばらく方隅法界を建立するだけである。無想天は上にあり、阿鼻獄は下とするのではない。阿鼻も盡法界なり、無想も盡法界なり。』このあとに続く部分が、この部分の本意を説明します。『もし傍観者がいて、汝が宮殿と思っているは流水である、と為説すれば、我らが今山流の道著を聞著するように、龍魚はたちまちに驚きこれを疑うであろう』。さらに山水経には『水は青、黄、赤、白、黒等にあらず』という一文もあり、これは聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経の、『彼に非ず、此に非ず、去来に非ず。青に非ず黄に非ず、赤に非ず白に非ず。紅に非ず紫に非ず種々の色に非ず』というのと同じ、大般若経の境地を示していると私は読みます。

804:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2023/07/21 at 16:44:21

roughton さん、コメントありがとうございます。

以前に東大や京大を卒業した高学歴の人たちと西嶋先生の講義を受けたことがあります。その時先生が「今日の講義は分かりましたか」と言われましたので、私は「はい、よく分かりました」と一人手を上げました。すると高学歴が自慢な人が、私に向かって「幽村さんの分かりましたは西嶋先生のレベルで分かっているのでない。私は何年も正法眼蔵を読んで未だに難しいと思うのに幽孫さんに正法眼蔵がわかるはずがない」と講義を受けている全員の前で言いました。

そこで講義を終えて引き上げていく先生を追いかけ先生にお聞きしました。「先生、私は分かっていないんでしょうか」と。先生は「あなたは分かっていますよ。彼は何十年も講義を聴きに来ているけれども、頭で分かろうとして坐禅を毎日やらないから難しいんですよ」と言われました。

私は道元禅師の正法眼蔵を読みながら毎日坐禅をすれば仏道において欠けたところはないと思っています。各人の正法眼蔵現代語訳はそれぞれだと思いますが、私は誰が何と言おうと西嶋先生の「正法眼蔵現代語訳」は正に世界一だと思っています。

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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