正法眼蔵 有時 23
従来たくさんの先輩方が時間について前述のように色々言っているけれども、自分自身(道元禅師)として、さらに何か言わないでそのままにしておく事ができようか。
自分の言葉として言うならば、「意欲や言葉が半ば充実しているのも現実の時間においてであり、意欲や言葉が半ば充実していないのも、やはり現実の時間においてである」と。この様に参究してみるべきである
また別の言葉でいえば、人が眉毛を上げたり瞬いたりする動作も中途半端な現実の時間において行われるのであり、人が日常生活において様々の行動をしているという事も、錯覚した状態における現実の時間における行動に他ならない。
なんらかの動作をしないと言う事もまた中途半端な時間においてであるし、そういう動作をする事が誤りだと言ってみても、それもまた時間においてである。このように様々な角度からこの問題を勉強してみて、わかったとかわからないとかと言ってみても、それらの一切が現実の時間における事態に他ならない。
※西嶋先生解説
我々の人生というものは様々の動きがあり、ある場合には非常に結構、ある場合には非常に不幸というふうな様々の評価の仕方があるけれども、それらの一切が全て時間において行われている。その事は、我々が「オギャ-」と生まれてから死ぬまでの間、過ごしていく瞬間瞬間以外には何もないと言うこと。
いいとか悪いとかと言ってみても、何かしたとか何もしないとかと言ってみても、それらは全て我々の人生における時間の一コマ一コマという事に他ならない。そうすると、いいとか悪いとかと言ってみてもそんな事よりも大事なのは、自分自身が一所懸命に生きているかどうかという事に他ならない。
他人から誉められるとか貶されるとかと言う事は大した事ではない。一番大切な事は自分自身が努力しているかしていないかという事に尽きる。それが人生。だからそれを誰もが担っている。そういう時間を誰もが担っているわけだが、その事に気が付く人、気が付かない人とがある。気が付いて一生を送る人と、気が付かないで一生を終わってしまう人との違いはある。
仏道がなぜ必要かといえば自分の人生というものが持っている意味を掴むということがある。それは偉いとか偉くないとかと言う問題を乗り越えた、自分の生命の瞬間瞬間の現れというものに気が付くか気が付かないかに尽きる。そういう立場から人生を見直してくると、ものの見かたが多少変わってくる。
人に誉められるとか誉められないとかという事はたいした問題ではないということ。自分自身の人生を真剣に生きているかどうかという事が絶対の問題として各人の問題として出てくるという面がある。だからこの「有時の巻」で説かれているのは、そういう意味も含めて、この我々の人生というものが本源においてどういう事かと言う事を言われているという事になろうかと思う。
「正法眼蔵有時」
1242年10月1日
興聖宝林寺においてこれを書いた。
―西嶋先生の話―
正法眼蔵では道元禅師は常に四段階の思考方法を使っていると思われます。 第一段階では全てを観念論的に、いわば抽象的、理論的に説明しています。 第二段階では、急に見方を変えて同じ事を唯物論的に、具体的な事例や物語、仏教経典 の引用を用いて説明します。 この二つの段階は我々の共通の思考の領域に属しているので、我々はそれを知的に理解する事が出来ます。
しかし道元禅師の考えはさらに先へ進み、第三段階で行為の領域に入ります。 我々が悟りを尊ぶ理由は知的な考察から行為の領域へ飛躍するところにあります。 行為の領域は知性の領域ではありません。しかし我々の思考は知性の領域に属しており、知性の領域から行為の領域に飛躍する事は我々にとって非常に難しい事であります。その意味で仏教では悟りが尊ばれているのです。
そして第四段階で道元禅師は現実そのもの、つまり行為と宇宙の法則とが一体になっ た領域を述べております。この四つの段階の中で第三段階の行為の哲学は、仏教における時間を考える上で特に重要です。
(2000年10月、ドイツ、ハノ-バ-で行われた西嶋先生の講演(英語)から一部を抜粋いたしました)
※雑記
年に二回、6月と12月に歯の掃除をやってもらう。予約をしてあったので午後歯医者さんに出かけた。口の中がなんとなくすっきりして気持ちいい。今度は12月です。
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自分の言葉として言うならば、「意欲や言葉が半ば充実しているのも現実の時間においてであり、意欲や言葉が半ば充実していないのも、やはり現実の時間においてである」と。この様に参究してみるべきである
また別の言葉でいえば、人が眉毛を上げたり瞬いたりする動作も中途半端な現実の時間において行われるのであり、人が日常生活において様々の行動をしているという事も、錯覚した状態における現実の時間における行動に他ならない。
なんらかの動作をしないと言う事もまた中途半端な時間においてであるし、そういう動作をする事が誤りだと言ってみても、それもまた時間においてである。このように様々な角度からこの問題を勉強してみて、わかったとかわからないとかと言ってみても、それらの一切が現実の時間における事態に他ならない。
※西嶋先生解説
我々の人生というものは様々の動きがあり、ある場合には非常に結構、ある場合には非常に不幸というふうな様々の評価の仕方があるけれども、それらの一切が全て時間において行われている。その事は、我々が「オギャ-」と生まれてから死ぬまでの間、過ごしていく瞬間瞬間以外には何もないと言うこと。
いいとか悪いとかと言ってみても、何かしたとか何もしないとかと言ってみても、それらは全て我々の人生における時間の一コマ一コマという事に他ならない。そうすると、いいとか悪いとかと言ってみてもそんな事よりも大事なのは、自分自身が一所懸命に生きているかどうかという事に他ならない。
他人から誉められるとか貶されるとかと言う事は大した事ではない。一番大切な事は自分自身が努力しているかしていないかという事に尽きる。それが人生。だからそれを誰もが担っている。そういう時間を誰もが担っているわけだが、その事に気が付く人、気が付かない人とがある。気が付いて一生を送る人と、気が付かないで一生を終わってしまう人との違いはある。
仏道がなぜ必要かといえば自分の人生というものが持っている意味を掴むということがある。それは偉いとか偉くないとかと言う問題を乗り越えた、自分の生命の瞬間瞬間の現れというものに気が付くか気が付かないかに尽きる。そういう立場から人生を見直してくると、ものの見かたが多少変わってくる。
人に誉められるとか誉められないとかという事はたいした問題ではないということ。自分自身の人生を真剣に生きているかどうかという事が絶対の問題として各人の問題として出てくるという面がある。だからこの「有時の巻」で説かれているのは、そういう意味も含めて、この我々の人生というものが本源においてどういう事かと言う事を言われているという事になろうかと思う。
「正法眼蔵有時」
1242年10月1日
興聖宝林寺においてこれを書いた。
―西嶋先生の話―
正法眼蔵では道元禅師は常に四段階の思考方法を使っていると思われます。 第一段階では全てを観念論的に、いわば抽象的、理論的に説明しています。 第二段階では、急に見方を変えて同じ事を唯物論的に、具体的な事例や物語、仏教経典 の引用を用いて説明します。 この二つの段階は我々の共通の思考の領域に属しているので、我々はそれを知的に理解する事が出来ます。
しかし道元禅師の考えはさらに先へ進み、第三段階で行為の領域に入ります。 我々が悟りを尊ぶ理由は知的な考察から行為の領域へ飛躍するところにあります。 行為の領域は知性の領域ではありません。しかし我々の思考は知性の領域に属しており、知性の領域から行為の領域に飛躍する事は我々にとって非常に難しい事であります。その意味で仏教では悟りが尊ばれているのです。
そして第四段階で道元禅師は現実そのもの、つまり行為と宇宙の法則とが一体になっ た領域を述べております。この四つの段階の中で第三段階の行為の哲学は、仏教における時間を考える上で特に重要です。
(2000年10月、ドイツ、ハノ-バ-で行われた西嶋先生の講演(英語)から一部を抜粋いたしました)
※雑記
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