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正法眼蔵 有時 22

帰省禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

これは自分を中心にして問題を主体的に考えるならば、自分が人に出会うと言えるだけの事であって、それは客観的に見れば人間が人間に出会うという事でもある。さらにその事を具体的な場面に即して考えるならば、自分自身が自分に出会う事である。

このような様々な捉え方があるが、いずれも時間がないならば現実にそういうものが現在の状態で現れると言う事はない。この様な様々の捉え方のいずれもが時間がなければ現れようがない。自分の意欲も現実の世界における時間において現れるのであり、

またそれを表現する言葉もそれらの意欲を巧みに表現する場面や時間においてある。現に実現したという事はさらに具体的な事態として現実としてそこにあるのであり、まだ到来していない事態も、現実とつかず離れずの状態における時間においてである。この様に理解すべきでありこの様に時間を現実において捉えるべきである。



              ー西嶋先生の話ー

    --つづき
我々が坐禅をして何をやっているか。正に言葉が生まれる以前の現実に触れている。そういう現実に触れた境地がわかってくると、言葉があろうとなかろうと本当のものがわかってくる。本当のものを基準に生きていくと我々の生活はそう複雑なものではない。

単純なものでどうしたらいいかという事は瞬間瞬間にすぐわかる。ところが今日では色々と言葉が発達して人間の考え方も実に複雑になっている。その複雑になった考え方で、あれが本当か、これが本当かと色々思い悩むから我々の人生そのものが複雑になってしまう。

そうすると調子がよくて高い波に乗っている時もあれば、調子が悪くなって低い波の底に沈んでしまうという事もある。この世の中の浮き沈みというものは人間がつくりだしたもの。我々が住んでいる世界の実態というものにはそう大きな波はない。極めて平静なしかも頼りになるものがある。

それが法と言うもののあり方である。そういう点では、無我とか無心と言う言葉だけが宗教の本質だとか仏教の本質だとかと言う簡単な理解の仕方は出来ない。この事が仏教を考える場合に一つ非常に大切な問題としてあろうかと思う。

※雑記
知人言う。夫がこんな事もわからないのか、と怒鳴ったり、家事を手伝ってくれないと・・・。
私言う。50年以上夫婦が続いたと言う事は五分五分だからじゃないのかな、と。
そして最後はやっぱり夫婦は「割れ鍋に綴じ蓋だよね」で落ち着く。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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