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正法眼蔵 有時 21

帰省禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

意欲とは独自の存在としてあるに他ならない。言葉も独自の存在としてあり、他人によってつくられるとか生まれてくるというものではない。障害も独自の存在であって何ものかによってつくられるというものではない。

障害は障害そのものとして現実に姿を現しているのである。様々のものが独自の存在であるけれども共通して言える事は時間において行われている。障害とは他の存在にとって障害となる事により他の存在を通して具体的な姿を現しているのではあるけれども、

他のものを邪魔をする事により障害が他のものを破壊して現れて来るという事ではない。障害そのものは修飾的存在として現実に姿を現しているのが我々の住んでいる世界の実態である。そう言う点では自分自身が他の人に出会うという事ではある。




              ―西嶋先生の話―

仏教の話を聞きますと無我や無心と言う言葉が二言めには出てくる。無我や無心という事だけで仏教と言うものが片付くかと言うと、仏教思想はそう簡単な教えではない。なぜかというと無我の我、無心の心と言う字、これはいずれも人間が作り出した言葉であるから、

この世の中に我というものがあり心というものがあると決め付ける事が出来るかどうかに問題である。 ところが我々は言葉にたいてい引きずり回されている。 だから我という言葉があると自分が間違いなくいると思い込む。

心と言う言葉があると心と言うものは必ずあるはずだ、なければならないと考える。我があるか心があるかという事は非常に大きな哲学上の基本的な問題です。だからそう簡単にあるとかないとかと言う事は出来ない。ただ仏教が問題にしているのは、言葉が生まれる以前にすでにあったもの、言葉があろうとなかろうと厳然として存在するものを問題にする。

そして、そういうものを法として捉えてその法を自分自身が身につけた時に、言葉があろうとなかろうと本当のものが見えてくる。これが仏教の教え。我々が坐禅をして何をやっているかと言うと、まさに言葉が生まれる以前の現実に触れているのであって、それが坐禅の実態である。
                              つづく--

※雑記
今日は定休日。妹と会う予定だったが妹の都合で中止になり、来週こちらに来るとのこと楽しみです。


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コメント
801: by roughton on 2023/06/21 at 16:04:29 (コメント編集)

『自分の眼球は眼球それ自身を見ることは出来ない』。禅の基本です。我々の『自我意識』で本体を掴むことは出来ない。こうして書いていることも『言葉』で説明しているし、『西山説』も『所詮は言葉にすぎない』。しかも、その言葉というものはきわめて危ういもので、『こころ』という語『我』という語に正確に対応する語は釈尊のインド語にはありません。日本語の『我』とか『私』は『フリダヤ』にも『アートマン』にも『アハンカーラ』にもなる。では『無私』とか『無我』とかいう場合、私というアハンカーラ(自我意識)がないのか?あるいはフリダヤという私のこころ、魂がないのか?『忘我』と『無我』は混同されてはならない。正法眼蔵の三界唯心を読むと『この三界は心の現成である』と一行目にある。そうすると西嶋説の『そう簡単に心があるとかないとかいうことができない』というのは、おかしな理論になります。古代インドの哲学では永遠不滅の魂(意識を含むフリダヤ)を考えましたが、釈尊はその思想から離れた。正法眼蔵の『仏性』のところに、四祖が少年に問う場面があります。『お前はなんという姓か?』『普通の姓ではありません』『なんという姓だ?』『仏性です』『お前は無仏性だ』『仏性は空であるから、それで無とおっしゃるのですね』。その少年は仏教の器であると四祖に認められて正法眼蔵を伝えられた、とあります。正法眼蔵の発菩提心のところに、『この菩提心はもともとあるものではない』とあります。『また本来あるものでもない』、『我が身体のなかに菩提心があるのではない』ともある。これはよく言われる『心は身体のうちにあるのか?なかにあるのか?という問答』につながります。道元禅師はここで般若経の空の理論をもって、つかめない空のきわみのない両端をおさえて『空気のまわりをなぞって説明しておられる。参究すべしです。

802:Re: タイトルなし by 幽村芳春 on 2023/06/21 at 17:15:56

roughton さんいろいろなご意見ありがとうございます。

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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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