fc2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 有時 20

江南省葉県の帰省禅師は臨在義玄禅師の孫弟子にあたる方であり、首山省念禅師の正統な後継者であった。

帰省禅師はある時たくさんの僧侶に説示して言った。
ある時は考え方はまとまっていながらそれが言葉となって出てこない。ある時はいい言葉が浮かんできたけれども、自分の気持ちが充実していない。ある時は自分の気持ちも充実し、それを表現する言葉も整っている。ある時は自分の気持ちも充実していないし、それを表現する言葉も浮かんでこない。
 
帰省禅師の言葉について道元禅師が注釈されます。
帰省禅師が人生において様々な場面があると言っているけれども、気分が充実して来たとかそれを表す言葉が浮かんで来たと言う事もいずれも時間においてである。ある時はいい考えを思いついた、ある時はいい考えがさっぱり浮かばないと言ってみてもともに時間においてである。

充実している時間がまだ終わらないのに充実していない時間が来たりする。ここで充実したりいい言葉が浮かんだとかと言うけれども、それはごく日常生活における当たり前の事である。充実するという事は何かが他から到来した事ではない。充実していないという事は今だ何物かが到来していないという事ではない。現実の時間の有り様はこのようである。

現在充実しているのは独自の存在として現在そうであるに他ならない。充実していないとは充実していないこと自体が現在の瞬間における現実である。充実していないという事も他のものによって制約されるのではなくて、現に充実していないという事が充実していないという事によって拘束されている事態があるにすぎないのであって、充実していない事が充実している事によって拘束される事はない。



              ―西嶋先生の話―

我々は坐禅を通じて仏道を勉強しています。 仏道は釈尊が説かれた生き方と言う事でもある。 ところが釈尊の説かれた生き方と世間の生き方が必ずしも全部同じではないと言う事が言えるのであって、その点で仏教は釈尊の説かれた生き方と、世間の生き方の違いをはっきり意識しておるわけです。

それがどんなふうに違うかと考えてみますと、仏道修行をしておっても当然食事はする。手洗いにも行くし夜になれば寝る。そういう点では普通の生活と全く変わらない。 それでは全く同じかと言うと違う面がある。例えばどういう点が違うかと言うと人間の価値の評価について考えて見ると、世間における人間の評価は人と人との比較でやる。

たとえば政治家の世界でいえば市会議員より県会議員、県会議員より国会議員、国会議員より大臣、大臣より総理大臣の方が偉いと言うふうに、段階的に比較の上でどっちが偉いかという事をすぐ考える。それから勲章というものを欲しがる向きになると無性に欲しいらしい。

だから無理をしてあっちこっちに頼みこんでぜひ推薦してくれと無理やりもらう事がかなりある。その勲章は皆さんかなり苦労に苦労を重ねた結果獲得した勲章と言う事になるわけであって、獲得した勲章にも偉い色があればそれより下の色もあるという事で、勲章の例をとってみても比較の問題が必ずある。

ところが仏道における人間の偉さというものは、人との比較で偉いとか偉くないとかと言う事が出てくるわけではない。 我々が坐禅をしている時には宇宙の中で坐禅をしておるという事実が実在するのであって、人との比較によって偉いとか偉くないとかではなくて、宇宙の中における一人の人間が持っている価値が坐禅という姿の中に出てくる。

だから仏道が問題にするのは世間的な比較ではなくて自分自身の問題、自分自身がどうやるか、自分自身の動き方生き方の問題と言う事になるわけであります。 沢木老師はよく「天地いっぱい」と言う事を言われた。仏道に基準をおいた人間の生き方というものは「天地いっぱいの生き方だ」とよく言われた。

「法」とは宇宙そのもの、宇宙の秩序と言う事であるとすれば、仏道の生き方は宇宙を基準にして生きる生き方という事になる。だから人との比較で偉いとか、偉くないとかと言う事を乗り越えた問題。人間の偉さを捉えてみても単なる他の人との比較ではなしに、自分自身が絶対の価値を持っている事が仏道の信仰なのである。

釈尊が「天上天下唯我独尊」と言われた。 天地の間に自分はたった一人で絶対の価値を持っておると言われたけれども、それは釈尊だけの問題ではない。我々人間すべてが「天上天下唯我独尊」それぞれが自分自身の絶対の価値をもっている。そのことに気ずいた人生と気ずかない人生とがあるわけであります。

仏道修行を通じて自分自身がいかに尊いものであるかと言う事に気がつくと、自分自身の人生を粗末にする事が出来なくなる。 ところが自分自身がいかに尊いものであるかと言う事に気づかないと色々な考え方で生き様とするから自分自身の人生を粗末にする恐れがある。

そういう点では仏道というのは、自分自身の絶対の価値というものをシッカリと掴まえて、それを基準にして生きていくという生き方、そういう捉え方もできようかと考えるわけです。

※雑記
仕事が終わってから、鉢に植えた朝顔が20cmぐらいになったので鉢より花壇に移す。長い支柱も何本も立てました。今年も朝顔のカ-テンの準備できました。 


いつも訪問していただきありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。
 
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

最近のコメント

カテゴリ

FC2カウンタ-