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正法眼蔵 有時 17

道元禅師の注釈は続きます。

夏もあれば冬もあるが、今は春だから春を舞台にして経歴(瞬間瞬間に移り変わっていく)という事が現実に行われているのである。 春が人間の常識で考える様にいつもそこにあるという事ではなくて、たまたま今が春であるに過ぎないと言う事実を詳細に何回となく勉強してみるべきである。

この経歴という言葉を考えていく場合に客観的な環境の他に、春というものが主体的に別にあるという考え方をし、春という主体が東に向かって沢山の世界を通り抜けると考えたり、百千劫という長い時間の中で行われると考える事は、釈尊の説かれた教えの学び方からすればこれだけが唯一の学び方ではない。

※西嶋先生解説
この事は突き詰めていえば、我々の人生は現在の瞬間しかないという事。 我々は、四十年、七十年、八十年と生きられるからその長い時間の中での一コマ と言う考え方をする。 しかし人生と言うものはそう言うものではない。 つまりいま生きている、いま生きているという現在の瞬間の連続でしかないと言う事をここでは述べらている。



             ー西嶋先生の話ー
    --つづき

もちろん足が慣れるまでは痛い事もありますし、長い時間坐っているとまだ時間が来ないと気がもめる事も勿論ある訳ですが、坐禅は慣れてくると「安らぎ」があると感ずる訳です。 現代人がそういう面での安らぎの時間を持つ習慣がなくなっているという事、次から次へと自分の体や心を動かして刺激を追い求めていく、緊張を追い求めていくと言う事が続き過ぎるのではないか。

その途中で休む時間が必要なのではないか。 いや、酒を飲めば結構休めますと言う事だけれども、酒を飲む事が本当に休む事に繋がるかどうか、あるいは一杯飲んで畳の上でゴロゴロ寝ている事が本当に休んだ事になるのかどうか、こういう問題があろうかと思う訳です。

そういう点では、坐禅を「安らぎ」と言う面から見る事が出来る。 したがって「正法眼蔵」弁道話の巻で道元禅師が「「坐禅は安楽の法門である」と言われた事の意味が単なる誇張ではなしに、あるいは文学的な表現ではなしに、心底安らかで楽しい修行だと言えるのではないかという気がする訳です。

※雑記
今年は知人に梅を約15キロ頂き夫が3回に分けて漬け終わった。後は梅雨明けに三日干して出来上がり。息子家族と娘家族は梅干しを待ってますが、それでもまだ食べきれないので知人にもらって頂けるか聞いたところ、毎年塩分の少ない梅干しを買っているとのこと。夫は塩分13%で酢を多めにして漬けている。基本塩分18%だから頂きたいという。梅酢も濾過して料理に使っている。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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