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正法眼蔵 有時 16

道元禅師の注釈は続きます。

この宇宙は不動不転と言うわけではなく常時変化している。進歩がないわけではない。退歩がないわけではない。 人間の智慧で決めつけて言い尽きるものではない。 無限の内容を具えているものではあるけれども、共通して言える事は経歴(瞬間瞬間に移り変わっていく)ものである。

この経歴は例えば例えば春のようなものに例える事が出来る。 春になると花が咲く、鳥が鳴く、魚が泳ぎだすと言うふうな春の様々の様子があるけれども、それらの一つ一つの現れが春という事実が出て来る場合の内容である。

こういう様々の内容が次々に現れてくる事が経歴という言葉の意味である。春をつくる何かがあって、それによって春ができ上がる、春がつくられるというものではなくて、冬が自然に春に移っていくという瞬間瞬間の移り変わりと学ぶべきである。

春とは春そのもの。 春がそこにあるだけ。春以外に何か神様のようなものがあって春をもってきてくれて、春をつくり出してくれると言う事ではなくて、そこには春が独自の存在としてあるだけである。 瞬間、瞬間の移り変わりというものはいつも春と言う事ではない。



               ―西嶋先生の話―

朝、駅で人の表情を見ても朝から「疲れた、もうとてもやりきれない」と言う表情をしておる人がわりあい多いと感ずる。 早く寝るところをついつい遅くまで起きていて休む機会が少なくなってきていると言う感じを受ける訳です。そんな事に関連して坐禅を考えて見ますと坐禅は一種の休息だという感じを持つ訳です。

こういう話をしますと人は「坐禅が休息になるなんてとんでもない、足は痛くてしょうがない、眠くはなるし姿勢を崩す事は出来ないし、休息なんてもってのほかだ」というご意見もあろうかと思う訳ですが、坐蒲の上に重心をのせてその上に背骨を立て、首筋の骨を立てて坐っている事は、

坐蒲の上に体の重心がのって、しかも頭の重さ、その他が重心の真上にあると言う事です。 ですから体重を保つ上においては苦しさの少ない姿勢だと言えると思います。 しかも何も考えなくていいという時間を持ち得ると言う事が、人間にとっては非常に幸福な事なのではなかろうかと思います。          つづく--

※雑記
子どもの頃は梅雨時に「カタツムリ」をよく見ましたが最近は見ません。小学生の頃、カタツムリを誰がたくさん捕まえたか競って遊んだ事を思いだした。貧しくても楽しかった子供時代、60年以上前の話です。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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