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正法眼蔵 有時 13

薬山惟儼禅師の言葉について道元禅師の注釈は続きます。

うかうかと時間を過ごしてしまうその前後というものも、すべて現実の時間の実際のあり方に他ならない。またこの世の中の当然あるべき姿に安住して、自分の実人生をしっかりと活き活きと生きていく境地にあるということも時間においてである。

人生は抽象的に存在しないと生半可に考える事も出来ないし絶対の実在だと決めつける事も出来ない。一般に時間はただただ過ぎ去るばかりと考えてまだ到来しないというふうには理解しない。その理解も時間においてなされるのではあるが、他人の考え方に従って改めるという機会が中々ないものである。

時間というものを去ったり来たりする性質のものだと認識する人はいるが、人生そのものは宇宙秩序の中に坐を占めた現在という瞬間瞬間の時間でしかないという徹底した理解をする事の出来る人が中々いない。難門を全部通り抜けて人生のすべてがわかったと言う事には到達しがたい。

この宇宙の実在の中に自分のいるべき位置をはっきりと摑み得たとしても「もうすでに一切の言い難き何物かが自分のものになった」と言い切れる状態で、それを口に出せる人が果たして何人おろう。

また「もうすでに一切の言い難き何物かが自分のものになった」と言い切ることが久しきにわたっている人の場合でも、まだ本来の面目が目の前に出てくる事を手探りで求めていないような人は一人もいない。

日常の明け暮れの生活を実態的に捉えるならば、真実に到達したとか、幸福の境地に入ったとかと言ってみても、凡夫におけると同じように、日常生活において瞬間瞬間に現れてくるところの明け暮れでしかない。

※西嶋先生解説
この辺は時間と言うものを非常に深く捉えておられる。あるいは哲学的によく人生と言うものを見ておられる。最初に申した様に、今日の世界における一番進んだ思想と言うものと今日述べた様な時間の捉え方とは密接な関係がある。だから七、八百年前の道元禅師がいかに天才であったとは言え、よくこれだけの思索を作り上げたものだということで驚異に値する。

そしてそれが何から生まれたかと言うと坐禅から生まれた。だから道元禅師はこの時間に関する考え方について釈尊の思想と一分一厘の違いもないという事を確信しておられた。なぜそういう事を確信しておられたかと言うと釈尊の教えそのものも坐禅から生まれた。

坐禅をしておれば理屈なんかもう全部飛び越えて、今日書かれておった様な事が言葉ではなしに、思想ではなしに、実態として体にしみ込んでくる。その事が仏道。だからそういう点では道元禅師が「坐禅さえすればもう一切の問題解決」と言われたのは、まさにそういう事態と関係があるわけです。

仏道と言うのは理屈をこねておったら難しくてわかるものじゃない。坐禅をしておればすぐわかる。体にしみついちゃう。仏道が体にしみついてしまう。だから坐禅をする事は仏道を体にしみ込ませる事に他ならない。そして体に仏道がしみ込んでしまえば何の心配もない。日常生活で何をしなきゃならんかという事は体が教えてくれる。

せっせせっせと目先の事をやって、愉快な気持ちで毎日を送っておれば最高の人生を送れるわけです。最高の人生といっても、一日一日の積み上げ瞬間瞬間の積み上げ以外に人生と言うものはあり得ない。そういう事にもなるわけです。だからこの「有時」の巻と言うのはそういう人生哲学を含めて、時間と言うものを考えておられるという事になろうかと思います。

※雑記
今日も野菜を頂きました。そして知人にお裾分け。この季節は野菜を沢山頂くので台所に立つ時間も長くなります。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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