正法眼蔵 谿声山色 25
懺悔に関する趣旨は大体次の様である。「願わくは私の過去の悪行が多く重なって仏道に進む障害になる原因になったとしても、釈尊の教えに従ってすでに真実を得た沢山の諸先輩方が私を哀れと思って、過去の煩いから脱け出す事を助けてくれ、仏道を学ぶ事に障害がない様にさせ、その効果が全宇宙に充満し行き亘るようにどうか憐れみをこの私にお分けくだい」と。
釈尊にしても達磨大師にしても真実を得られたとは言ってみてもその最初は我々と同じであった。我々といえども将来は必ず仏になるであろう。釈尊の昔を見てみても、釈尊が何らかの機縁で自分の国から離れて仏道修行の生活に入られたという事も、たった一人の青年が真実を得たいという気持ちを起こしたという具体的な事実以外にない。
誰であろうとも、発心をして仏道を勉強しようと言う気持ちをおこせばそのまま仏の生活に入れる。この様に仏というものが慈悲の心をあらゆる場面において分け与えておられるのであるから、我々としては常に仏道修行の便宜を与えられるのであり、仏道修行における極めて恵まれた環境に誰でもがいて、そこから逃げようとしても逃げられない。
―西嶋先生の話―
「正法眼蔵」と言う本は非常にありがたい本で、我々の日常生活に関するごく細かい問題についても、どこかの箇所でその回答が与えられておると言う事があるわけです。 だからこの本を読んで、隅から隅まで意味が取れるようになると、一生この「正法眼蔵」さえあればどんな問題でもけりがつく言う事があるわけです。
だからその点では難しい本ではあるけれども、この本を読みこなすという事は一人一人の人生にとって非常に大きな意味がある。人生はいくら長く生きても百年前後、大抵数十年で終わりになる。 と言う事は我々に与えられている時間というものは、無限に与えられてはいない。 割り当てられた時間はせいぜい百年。 その割り当てられた百年の時間と言うのは非常に貴重。
それをどう過ごすかと言う事がかなり大事な問題になるわけです。 我々は普通その人生に対して波乱を求める。 非常にいい事を希う。 ところがそのいい事を希うと人生必ず裏目がある。 いい事があったり悪い事があったりする波乱万丈の人生が望ましい人生であると大抵の人は考えている。
しかし仏道ではそういう考え方をしない。 あまり高い波もないように、あまり低い波もないように海の水平線のように高低のない、きわめて静かな、一直線の人生が望ましいという考え方である。仏道では波乱万丈の人生は求めないけれども、普通はそういう考え方はしない。簡単な例をいえばこの世の中には色々な楽しみがある。
金が欲しいとか財力が欲しいという事で各人努力するわけだけれども、うっかりすると競馬や競輪というふうなものを当てにしがちである。そうして馬券なり車券なりを買ってレ-スが終わるまでは自分の買った馬券が必ず来ると思っている。ハラハラワクワク「そのうち来る」「あ、やっぱり来なかった」と言う事で、悔しがって馬券をちぎって腹を立てる。
この世の中で競輪とか競馬等の最大の名人がいる。その名人は、国家・県・市・主催している団体。これは売上の何割かの金はゴッソリ自分の懐へ入れてしまう。あとの残ったニ、三割の金を分けあって、「そのうち来る「「あ、やっぱり来なかった」といって争うわけだから、どんな競馬や競輪の名人でも国や県には勝てない。
そういう仕組みになっているにもかかわらず、自分の買った券で何とかして大穴を当てようと儚い望みを持ってやっているわけです。えてして世の中にはそういう波乱を求めてその結果、裏目に出るという場合が多い。―中略― 派手に派手にという努力が、地味に地味にという方に否応なしに行ってしまうという事もある。
そうすると我々は本当に腹を据えて、どういう生き方をしたらいいかと言う事を常に考えていかざるを得ない。 人生わずか数十年、せいぜい<百年の割り当てをどう生きるかと言う事、これはかなり大切な問題。 だからそういう点では、どういう生き方をするかと言う事が我々の生活にとってかなり大切です。 したがって「正法眼蔵」のような本を勉強していくと言う事が、一人一人の人生にとってかなり 大切な事というふうに考えざるをえない。
※雑記
店の前の歩道を通る子供を連れたお母さんに「こんにちは」と挨拶した。旦那さんは土、日、連休は仕事で、家族連れで出かける事が殆どないという。子供が小さい頃は自分達夫婦も土、日、連休は仕事で子供達にはずいぶん寂しい思いをさせた。そんな二人の子供も家庭を持ち家族仲良くやっているようです。爺・婆は五人の孫達が大好きです。
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釈尊にしても達磨大師にしても真実を得られたとは言ってみてもその最初は我々と同じであった。我々といえども将来は必ず仏になるであろう。釈尊の昔を見てみても、釈尊が何らかの機縁で自分の国から離れて仏道修行の生活に入られたという事も、たった一人の青年が真実を得たいという気持ちを起こしたという具体的な事実以外にない。
誰であろうとも、発心をして仏道を勉強しようと言う気持ちをおこせばそのまま仏の生活に入れる。この様に仏というものが慈悲の心をあらゆる場面において分け与えておられるのであるから、我々としては常に仏道修行の便宜を与えられるのであり、仏道修行における極めて恵まれた環境に誰でもがいて、そこから逃げようとしても逃げられない。
―西嶋先生の話―
「正法眼蔵」と言う本は非常にありがたい本で、我々の日常生活に関するごく細かい問題についても、どこかの箇所でその回答が与えられておると言う事があるわけです。 だからこの本を読んで、隅から隅まで意味が取れるようになると、一生この「正法眼蔵」さえあればどんな問題でもけりがつく言う事があるわけです。
だからその点では難しい本ではあるけれども、この本を読みこなすという事は一人一人の人生にとって非常に大きな意味がある。人生はいくら長く生きても百年前後、大抵数十年で終わりになる。 と言う事は我々に与えられている時間というものは、無限に与えられてはいない。 割り当てられた時間はせいぜい百年。 その割り当てられた百年の時間と言うのは非常に貴重。
それをどう過ごすかと言う事がかなり大事な問題になるわけです。 我々は普通その人生に対して波乱を求める。 非常にいい事を希う。 ところがそのいい事を希うと人生必ず裏目がある。 いい事があったり悪い事があったりする波乱万丈の人生が望ましい人生であると大抵の人は考えている。
しかし仏道ではそういう考え方をしない。 あまり高い波もないように、あまり低い波もないように海の水平線のように高低のない、きわめて静かな、一直線の人生が望ましいという考え方である。仏道では波乱万丈の人生は求めないけれども、普通はそういう考え方はしない。簡単な例をいえばこの世の中には色々な楽しみがある。
金が欲しいとか財力が欲しいという事で各人努力するわけだけれども、うっかりすると競馬や競輪というふうなものを当てにしがちである。そうして馬券なり車券なりを買ってレ-スが終わるまでは自分の買った馬券が必ず来ると思っている。ハラハラワクワク「そのうち来る」「あ、やっぱり来なかった」と言う事で、悔しがって馬券をちぎって腹を立てる。
この世の中で競輪とか競馬等の最大の名人がいる。その名人は、国家・県・市・主催している団体。これは売上の何割かの金はゴッソリ自分の懐へ入れてしまう。あとの残ったニ、三割の金を分けあって、「そのうち来る「「あ、やっぱり来なかった」といって争うわけだから、どんな競馬や競輪の名人でも国や県には勝てない。
そういう仕組みになっているにもかかわらず、自分の買った券で何とかして大穴を当てようと儚い望みを持ってやっているわけです。えてして世の中にはそういう波乱を求めてその結果、裏目に出るという場合が多い。―中略― 派手に派手にという努力が、地味に地味にという方に否応なしに行ってしまうという事もある。
そうすると我々は本当に腹を据えて、どういう生き方をしたらいいかと言う事を常に考えていかざるを得ない。 人生わずか数十年、せいぜい<百年の割り当てをどう生きるかと言う事、これはかなり大切な問題。 だからそういう点では、どういう生き方をするかと言う事が我々の生活にとってかなり大切です。 したがって「正法眼蔵」のような本を勉強していくと言う事が、一人一人の人生にとってかなり 大切な事というふうに考えざるをえない。
※雑記
店の前の歩道を通る子供を連れたお母さんに「こんにちは」と挨拶した。旦那さんは土、日、連休は仕事で、家族連れで出かける事が殆どないという。子供が小さい頃は自分達夫婦も土、日、連休は仕事で子供達にはずいぶん寂しい思いをさせた。そんな二人の子供も家庭を持ち家族仲良くやっているようです。爺・婆は五人の孫達が大好きです。
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