正法眼蔵 谿声山色 24
道元禅師の説示は続きます。
修行に対していくら自分自身を励ましても、体がだるい気持ちもたるんでどうにも動きが取れない、そういう場合には真心を専一にして、過去の真実を得られた方々(釈尊・達磨大師など)に対して「自分はどうも怠け癖が抜けません、自分は仏教に対して不信の気持ちが生じました」と言う非を正直に告白すべきである。
この様にする時は告白した効果によって、自分自身がそこでもう一度清浄な状態に立ち返る事が出来る。この様に非を素直に告白したその力によって、今度は何物にも妨げられる事がない浄い信仰や努力を生み、自分を成長させてくれる原因となるのである。
そして混じりけのない信仰がひとたび発現すことによって、自分自身も信仰に入っていけるし、自分の環境もそうした方向に動いていく。そしてその良い影響というものが周囲の生物や無生物にまで良い影響を与える。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は祈りとか懺悔とか、そういう事をあまりなさらないような印象を受けますが、そういう事はないんですか。
先生
全然やらないということではないですね。ただあまり重視はされておらなかった。特に師匠の天童如浄禅師が「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず」と言われた。焼香と言うのは香をたく事、礼拝と言うのは五体投地の礼をすること、念仏は今日でも念仏と言われている。
修懺と言うのはここに書いてある懺悔をすること、看経と言うのはお経を読む事、そういうことはあまり必要ないと言われておる。そんな事をやるよりも坐禅をやる事が仏道修行の根幹だということを言われておる。だから必ずしも懺悔とか焼香とかということを重視されておるということではない。
しかしそういうものは全然要らんというふうな考え方でもない。懺悔と言うのは釈尊の時代の仏教に関しても経典に残っておるわけです。だからそういう点ではこういうところでもそういうものが出てきておると、そういうことになるわけですね。
※雑記
坐禅をする様になってから旅行とか遠くに出かける事はありません。遠くに出かけなくても目の前の毎日の変化が楽しみを与えてくれます。この楽しみの中で毎日を暮らしています。今日は仕事の合間に花の手入れをしました。
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修行に対していくら自分自身を励ましても、体がだるい気持ちもたるんでどうにも動きが取れない、そういう場合には真心を専一にして、過去の真実を得られた方々(釈尊・達磨大師など)に対して「自分はどうも怠け癖が抜けません、自分は仏教に対して不信の気持ちが生じました」と言う非を正直に告白すべきである。
この様にする時は告白した効果によって、自分自身がそこでもう一度清浄な状態に立ち返る事が出来る。この様に非を素直に告白したその力によって、今度は何物にも妨げられる事がない浄い信仰や努力を生み、自分を成長させてくれる原因となるのである。
そして混じりけのない信仰がひとたび発現すことによって、自分自身も信仰に入っていけるし、自分の環境もそうした方向に動いていく。そしてその良い影響というものが周囲の生物や無生物にまで良い影響を与える。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
道元禅師は祈りとか懺悔とか、そういう事をあまりなさらないような印象を受けますが、そういう事はないんですか。
先生
全然やらないということではないですね。ただあまり重視はされておらなかった。特に師匠の天童如浄禅師が「焼香・礼拝・念仏・修懺・看経を用いず」と言われた。焼香と言うのは香をたく事、礼拝と言うのは五体投地の礼をすること、念仏は今日でも念仏と言われている。
修懺と言うのはここに書いてある懺悔をすること、看経と言うのはお経を読む事、そういうことはあまり必要ないと言われておる。そんな事をやるよりも坐禅をやる事が仏道修行の根幹だということを言われておる。だから必ずしも懺悔とか焼香とかということを重視されておるということではない。
しかしそういうものは全然要らんというふうな考え方でもない。懺悔と言うのは釈尊の時代の仏教に関しても経典に残っておるわけです。だからそういう点ではこういうところでもそういうものが出てきておると、そういうことになるわけですね。
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