正法眼蔵 谿声山色 23
道元禅師の説示は続きます。
この世の中には真実を得た人もたくさんいる。素晴らしい人もいればそうでない人もいるけれども、それらの一切が谷の響きや山の姿である。それと同じような自然のありのままの姿を捉える事に他ならない。この様に我々の生きている世界には様々な事象や様々な事態と言うものがあり、谷川が滔々と流れ響きを伝えている。
それはそのまま釈尊の説法であり釈尊の教えの賛嘆詩である。その事態を取り上げて見ても、それはすでに一切の論議や一切の感情を超越した現実そのものの姿であり、つまらない常識的な考え方にとらわれる事のない独自の境地である。
俗書(論語)においても、「これを仰げばいよいよ高くこれを切ればいよいよ堅し」と言っている。仏教界の先輩方は「天にも地にも一切の場所に真実が満ち溢れている」と言われた。それは春にも緑の色を変えない松の操をも具えておれば、また秋の野に咲きこぼれる菊の美しさも具えているのであり眼前の現実そのものである。
高徳の僧がこの様な境地に達したな正に正に偉大な指導者と称する事が出来よう。しかしこの様な境地にも達していない者がむやみに人のために説法するは大きな災いのもとである。
春の松を春の松としてそのまま認識することができず、秋の菊を秋の菊としてそのまま見る事ができない人は、せっかく仏道修行をするためにあちこち旅をして、わらじ銭をたくさん使っていても何の役に立つことがあろう。どうして人生問題の根源と言うものを断ち切って、真実と言うものはこれだということがわかり得よう。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「結果論」という言葉がありますが、仏道というのはやはりその結果論ですか。
先生
いや、結果論じゃないね。 結果論というのは後からの説明でね。 仏道では結果論をやっているほど人生はのんきじゃないと言う思想です。 結果論ぐらいのんきな思想はないんでね。 後から出て来て、やっぱり俺の考えたとおりだったと言う様なことをいう訳だけどね。 人生というのはそんなのんきなものではない。
いま何をやらなきゃならんかという事で、年中追っかけ回されてる訳だからね。 結果が出てからさて自分の考えを述べますじゃ間に合わないわけです。 だから仏道は結果論ではない。
質問
その反省はあっていいのですね。
先生
いや、人生は反省していられ程程のんきなものじぁない。 よく反省が大事だなんていいますが人生はそんなにのんきなものじぁない。 もう瞬間瞬間の勝負だから。 結果がよかろうと悪かろうと刻々に人生は燃焼していくわけ。 だからそれは蝋燭と全く同じ。 どんどん、どんどん燃えていっている。 そういう突き詰めたものだという事を感じられたのが釈尊。 我々の一生とは、今何をするかで常に追いまくられている。
それが我々の人生そのものだ、と教えられたのが釈尊だと考えていいと思います。 「そうあせったってしょうがないから、まあのんびりといきましょう」と言うのが普通の生き方だけれども、そういう生き方で後悔がないかどうかというと、私はやっぱり後悔が出てくるんじゃないかと思う。 そうするとやっぱり、いま一所懸命やらざるを得ないと言う考え方の方が後悔の少ない一生になるんだと思う。
※雑記
今日は定休日。ス-パ-三カ所で一週間分の食料品の買い出し。365日、朝坐禅をして一日が始まり、夜坐禅をして寝る。坐禅のある生活は、目の前のしなければならないことがせっせできるので余分なことを考えないので忙しいです。
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この世の中には真実を得た人もたくさんいる。素晴らしい人もいればそうでない人もいるけれども、それらの一切が谷の響きや山の姿である。それと同じような自然のありのままの姿を捉える事に他ならない。この様に我々の生きている世界には様々な事象や様々な事態と言うものがあり、谷川が滔々と流れ響きを伝えている。
それはそのまま釈尊の説法であり釈尊の教えの賛嘆詩である。その事態を取り上げて見ても、それはすでに一切の論議や一切の感情を超越した現実そのものの姿であり、つまらない常識的な考え方にとらわれる事のない独自の境地である。
俗書(論語)においても、「これを仰げばいよいよ高くこれを切ればいよいよ堅し」と言っている。仏教界の先輩方は「天にも地にも一切の場所に真実が満ち溢れている」と言われた。それは春にも緑の色を変えない松の操をも具えておれば、また秋の野に咲きこぼれる菊の美しさも具えているのであり眼前の現実そのものである。
高徳の僧がこの様な境地に達したな正に正に偉大な指導者と称する事が出来よう。しかしこの様な境地にも達していない者がむやみに人のために説法するは大きな災いのもとである。
春の松を春の松としてそのまま認識することができず、秋の菊を秋の菊としてそのまま見る事ができない人は、せっかく仏道修行をするためにあちこち旅をして、わらじ銭をたくさん使っていても何の役に立つことがあろう。どうして人生問題の根源と言うものを断ち切って、真実と言うものはこれだということがわかり得よう。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
「結果論」という言葉がありますが、仏道というのはやはりその結果論ですか。
先生
いや、結果論じゃないね。 結果論というのは後からの説明でね。 仏道では結果論をやっているほど人生はのんきじゃないと言う思想です。 結果論ぐらいのんきな思想はないんでね。 後から出て来て、やっぱり俺の考えたとおりだったと言う様なことをいう訳だけどね。 人生というのはそんなのんきなものではない。
いま何をやらなきゃならんかという事で、年中追っかけ回されてる訳だからね。 結果が出てからさて自分の考えを述べますじゃ間に合わないわけです。 だから仏道は結果論ではない。
質問
その反省はあっていいのですね。
先生
いや、人生は反省していられ程程のんきなものじぁない。 よく反省が大事だなんていいますが人生はそんなにのんきなものじぁない。 もう瞬間瞬間の勝負だから。 結果がよかろうと悪かろうと刻々に人生は燃焼していくわけ。 だからそれは蝋燭と全く同じ。 どんどん、どんどん燃えていっている。 そういう突き詰めたものだという事を感じられたのが釈尊。 我々の一生とは、今何をするかで常に追いまくられている。
それが我々の人生そのものだ、と教えられたのが釈尊だと考えていいと思います。 「そうあせったってしょうがないから、まあのんびりといきましょう」と言うのが普通の生き方だけれども、そういう生き方で後悔がないかどうかというと、私はやっぱり後悔が出てくるんじゃないかと思う。 そうするとやっぱり、いま一所懸命やらざるを得ないと言う考え方の方が後悔の少ない一生になるんだと思う。
※雑記
今日は定休日。ス-パ-三カ所で一週間分の食料品の買い出し。365日、朝坐禅をして一日が始まり、夜坐禅をして寝る。坐禅のある生活は、目の前のしなければならないことがせっせできるので余分なことを考えないので忙しいです。
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