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正法眼蔵 谿声山色 22

道元禅師の説示は続きます。
この様に何とかして諸先輩の跡を追いかけて仏道修行をしたいという気持ちを起こし師匠をたずね真実を求めて行くに当たり、高い山に梯子を使ってよじ登ったり、広い海を船で渡ったりするような努力が伴うのである。この様にして自分の師匠となるべき人をたずね、高徳の僧を求めていくならば、ほんの偶然の事からどこかで思いがけなく師匠に遭遇することが出来るのである。

そしてその師匠と弟子とのやり取りにおいては、師匠は生物にも説法させ、無生物にも説法させる。弟子は体でも聞き心でも聞く。耳で聞くということは誰でもが理解できる常識的な捉え方ではあるけれども、場合によっては眼で音を聞くということも必ずしもないとは断定できない。
        
仏(真実を得た人)に相見した場合、人はその仏の中に自分自身をも発見し、同時に自分以外の他人をも発見する。またとてつもなく大きく優れた真実を得た仏を見る場合もあるし、仏ではあるけれどもその規模が小さい場合もあり、様々の姿をした仏と言うものを見る。たとえ相手が途轍もなく大きいからと言ってそれに驚いたり恐怖をいだいてはならない。相手が小さいからと言って怪んだり疑ったりしてはならない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
私は坐禅ができる事を幸せに思ってはいるんです。私の友達にギックリ腰で坐る事が出来ない人がいるんですね。病気になっている人に道元禅師の話をするのはなんか気の毒であるような気がするんですが、そういう人にどう接したらいいんでしょうか。

先生
たまたまギックリ腰と言う病気が実例に出た訳ですが、坐禅をやっているとギックリ腰には絶対にならない。これは毎日、腰骨の状態を正しい状態においておる訳だからね。ギックリ腰と言うのはその腰骨の状態が歪んだまま何十年もそういう生活を続けるから、結局無理に無理が重なってどうにもならなくなって出て来るのがギックリ腰ですよ。だからそういう点では坐禅をやっている限り、ギックリ腰にならんと言う事が言える訳ですよね。

只たまたま様々な体の疾患でどうしても坐禅が出来ないと言うふうな状態の人がいないとは言えない。その人たちがどういう形になるのかと言う点については第三者からは想像できない。私自身も想像できない。だからそういう体の疾患でどうしても坐禅が出来ない人々に対して、こうすべきだなんて事は言えないわけでね。

結局そう言う当事者自身がどういう形で坐禅と同じ様な効果が生まれるかとか、実際にどうしても出来ないのかどうかと言う点は、それぞれの当事者の問題だと言う事にならざるを得ない。その点では私自身も自分の経験しない事、自分の経験できない事については論議が出来ないと言う問題がある訳ですね。

だからそういう事については、私自身としても「今のところわかりません」と言う答えにならざるを得ないという事があると思います。これは決して薄情でも何でもないんでね。ただ自分で経験しない事については言えないと言う事ですよ。

※雑記
マイナンバ-カ-ドを作るのは心配という人がいる。理由は預貯金が国に管理されるようになると思っている。マイナンバ-カ-ドを作るか作らないか考え中だとか。いろんな考え方の人がいます。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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