正法眼蔵 礼拝得髄 26
道元禅師の説示は続きます。
真実を得られた方々がつくられた結界の土地に一度でも足を踏み入れた者は、どの様な人でも釈尊の与える恵みを受け取るのである。それは戒律を犯すことのできない恵みであり浄い状態を得るところの恵みである。その様にしてつくられた結界と言うのは、ほんの一部の地域を結界として定めたとしてもすぐさま宇宙全体がすべて結界になるのである。
また一部の重要なところを結界として定めることにより宇宙全体が結界となるのである。ある場合には水によって結界をつくりある場合には心の中だけで結界をつくる。ある場合には空間を定めてそれを結界とすることもあり、そのやり方は師匠から弟子へと代々言い伝えてきたやり方と言うものを知って行うべきである。
そして結界をつくる時には洒水を行った後仏に対しての礼拝を終わり、さらに地域を浄めたうえで、「この我々が住んでいる一切の世界と言うものが何らかの作為なしにきわめて自然に結界となってすでに浄いものになった」と唱えるのである。この事を日頃から「結界」と言葉を口にして女性を立ち入らせない先輩達は知っているかどうか。
思うにあなた方は結界をつくることによって宇宙全体が結界となってしまうということを知らないのである。結局あなた方は理屈を唱えて仏道を勉強しようとしている人々の教えに騙されて、ほんのわずかの狭い地域というものを大きな偉大な世界だと考えるに過ぎない。
願わくば日頃の迷いや酔いが早く醒めて、真実を体得された方々の偉大な世界を踏み外す事のないことを。釈尊が全ての人々を救われると言うことの趣旨は、あれは救うけれどもこれは救わないと言う事ではない。男性は救うけれども女性は救わないと言う事ではない。
生きとし生けるもの誰でもが釈尊の教化を受けると言う性質を知って、それを礼拝し、それを敬うべきである。この様にして釈尊の救いというものを礼拝し恭敬するならば、誰がこれを釈尊の教えの真髄を得た人と言わない事があろう。
「正法眼蔵礼拝得髄」
1239年 清明の日(春分後15日にあたる日)
観音導利興聖宝林寺においてこれを書き記した。
※西嶋先生の話
以上が「礼拝得髄」の巻の全体ということになるわけ。この「礼拝得髄」の巻では女性であれ、あるいは老人であれ、子供であれ、真実を得た人は真実を得たと言うことのために尊敬せられるべきであり、また尊敬すべきであるということを繰り返し述べておられる。
特にその中心は道元禅師の持っておられた女性観。この女性観を通して拝読してみると、実に徹底した男女平等の思想。男女平等ということは昭和20年以降しきりに唱えられて、一所懸命そうしようと思って各人が考えているわけだけれども、心の中ではなかなか完全に平等という信念に徹している人ばかりではない。
そんなことを言ったってちょっと違うんだというふうな事を考えがちだけれども、七百年、八百年以前に道元禅師が持っておられた思想と言うのは徹底して平等ということを考えておられた。仏道の立場からそういうことを考えておられたということは、この「礼拝得髄」の巻を読むと非常にはっきりする。
この様な男女平等観と言うものを持っておられた方と言うのは過去においては非常に少ないんではないか。これ程徹底して男女平等ということを説かれた方と言うのは、おそらく道元禅師以外には過去においてはきわめて少ないのではないかというふうに感じられる。
※雑記
介護施設で働いている知人が言うには、「介護施設は人手不足のため合併したり閉鎖する施設が増えている」と。
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真実を得られた方々がつくられた結界の土地に一度でも足を踏み入れた者は、どの様な人でも釈尊の与える恵みを受け取るのである。それは戒律を犯すことのできない恵みであり浄い状態を得るところの恵みである。その様にしてつくられた結界と言うのは、ほんの一部の地域を結界として定めたとしてもすぐさま宇宙全体がすべて結界になるのである。
また一部の重要なところを結界として定めることにより宇宙全体が結界となるのである。ある場合には水によって結界をつくりある場合には心の中だけで結界をつくる。ある場合には空間を定めてそれを結界とすることもあり、そのやり方は師匠から弟子へと代々言い伝えてきたやり方と言うものを知って行うべきである。
そして結界をつくる時には洒水を行った後仏に対しての礼拝を終わり、さらに地域を浄めたうえで、「この我々が住んでいる一切の世界と言うものが何らかの作為なしにきわめて自然に結界となってすでに浄いものになった」と唱えるのである。この事を日頃から「結界」と言葉を口にして女性を立ち入らせない先輩達は知っているかどうか。
思うにあなた方は結界をつくることによって宇宙全体が結界となってしまうということを知らないのである。結局あなた方は理屈を唱えて仏道を勉強しようとしている人々の教えに騙されて、ほんのわずかの狭い地域というものを大きな偉大な世界だと考えるに過ぎない。
願わくば日頃の迷いや酔いが早く醒めて、真実を体得された方々の偉大な世界を踏み外す事のないことを。釈尊が全ての人々を救われると言うことの趣旨は、あれは救うけれどもこれは救わないと言う事ではない。男性は救うけれども女性は救わないと言う事ではない。
生きとし生けるもの誰でもが釈尊の教化を受けると言う性質を知って、それを礼拝し、それを敬うべきである。この様にして釈尊の救いというものを礼拝し恭敬するならば、誰がこれを釈尊の教えの真髄を得た人と言わない事があろう。
「正法眼蔵礼拝得髄」
1239年 清明の日(春分後15日にあたる日)
観音導利興聖宝林寺においてこれを書き記した。
※西嶋先生の話
以上が「礼拝得髄」の巻の全体ということになるわけ。この「礼拝得髄」の巻では女性であれ、あるいは老人であれ、子供であれ、真実を得た人は真実を得たと言うことのために尊敬せられるべきであり、また尊敬すべきであるということを繰り返し述べておられる。
特にその中心は道元禅師の持っておられた女性観。この女性観を通して拝読してみると、実に徹底した男女平等の思想。男女平等ということは昭和20年以降しきりに唱えられて、一所懸命そうしようと思って各人が考えているわけだけれども、心の中ではなかなか完全に平等という信念に徹している人ばかりではない。
そんなことを言ったってちょっと違うんだというふうな事を考えがちだけれども、七百年、八百年以前に道元禅師が持っておられた思想と言うのは徹底して平等ということを考えておられた。仏道の立場からそういうことを考えておられたということは、この「礼拝得髄」の巻を読むと非常にはっきりする。
この様な男女平等観と言うものを持っておられた方と言うのは過去においては非常に少ないんではないか。これ程徹底して男女平等ということを説かれた方と言うのは、おそらく道元禅師以外には過去においてはきわめて少ないのではないかというふうに感じられる。
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