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正法眼蔵 礼拝得髄 23

道元禅師の説示は続きます。

大乗でも小乗でも阿羅漢の地位は最高の地位でありその内容に違いはない。尼僧の中にはこれらの阿羅漢の境涯を実際に自分のものにした人が多い。これらの尼僧は全宇宙のどこにでも行き得るのである。誰がその行為を止める事が出来よう。女性でありながらすでに仏になった人もいる。

だれが真実を究めたこの女性をじゃまして「この場所には入ってはいけない、あの場所には入ってはいけない」と言う事が言い得よう。その尼僧にはすでに一切の方角を照らすだけの力量があるのであるから、あそこの場所はだめ、ここの場所はだめと言う様な境界線を設けても何の役にも立たない。

すでに過去・現在・未来の釈尊の指導される教団に参加し釈尊と同じ場所で学んでいる尼僧を遮る何があろう。このような尼僧に対し入ることを拒んでいる結界と称するものは、釈尊の指導された教団とはやり方が違うであろう。釈尊の定められた教えと誰が信じるであろう。

これはただ世間の人々を惑わすところのきわめて愚かな人々であり、それは野生の動物が自分の住む洞穴を人間に奪われまいとして人が来るのを防ぐという事と少しも変わらない。



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
四果(仏道修行の最後の段階で得られる成果)を証した人を阿羅漢と呼びますね。その阿羅漢と言うのはたとえば声聞の人も阿羅漢と・・・。

先生
ええ、一般にそう言われています。

質問
なんか我々が見ると、菩薩とか仏子とかからは下がっちゃうような感じがするんですが、これで見れば阿羅漢と言うのは大変立派な事ですね。

先生
そうです。それで「正法眼蔵」には阿羅漢の巻<と言うのがあるんです。その阿羅漢の巻においては阿羅漢は仏道の究極だという事がはっきり書いてありますね。一般の理解では、阿羅漢と言うのは声聞衆の最高の位だから菩薩や仏に比べると落ちるという解釈が一般なんですが、道元禅師はそういう考え方をしておられないですね。

質問
五百羅漢と言うと変な顔をして変な恰好してますね、それであれは小乗の世界かと・・・。違いますんですね。

先生
ええ一般にはそう理解されていますけれども、道元禅師は「阿羅漢」の巻では、とにかく行いが整えばいいという考え方ですね。だから戒律を守ってとにかく戒律から外れなくなれば、そういう生き方でも仏道の究極にはいけるんだと。だからそういう境地に達した者は仏道の最高のものに達したと見ていいという事を言っておられます。

※雑記
自宅と店の玄関に毎年暮れからパフィオを飾ります。沢山咲いてた花も4月8日の花祭りの頃には終わります。30年くらい夫が毎年植え替えて綺麗な花を咲かせます。私は花を見て楽しむだけです。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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