fc2ブログ
トップページ | 全エントリー一覧 | RSS購読

正法眼蔵 洗浄 8

まだ「洗浄」の巻は続きますが、これから先は寺院生活での用の足し方の作法等が述べられています。管理人は寺院で暮らす僧侶ではないのでこれ以降は省略します。

※西嶋先生解説
「洗浄の巻」全文で、この様に道元禅師は仏教の教え、釈尊の教えと言うものは日常生活をどうやるかと言う事に他ならないということを強く感じておられたから、手洗いの事についても事細かにその仕来たりと言うものを説明されたわけであります。

ところがこういう手洗いの使い方というのを事細かに説明した宗教書と言うのは世界でも例が少ないと思う。経典の中には手洗いの事が出てくるわけで、ここの「洗浄」の巻にも引用されておるわけだけれども、経典以外の書物で手洗いをどうするかということを書かれた文章としては、世界広しと言えどもこの文章ぐらいしかないのではないかと思う。

そのことが道元禅師があるいは仏教が日常生活をどういうふうに考えておったか、日常生活と宗教との関係をどういうふうに考えておられたかということの非常に大きな参考になる。きれい事で人間が中々できそうもない様な事をとうとうと述べて、こうしなきゃならん、ああしなきゃならんと言っているようなのが宗教ではない。

ご飯の食べ方をどうするか、手洗いに行っての動作をどうするか、あるいは寝た時はどうするか、というふうな日常生活の送り方そのものが仏道だ、というのが仏教思想の非常に大切な問題。そういう日常生活をどう送るかということが、治安の問題などとも密接な関係がある。

気持ちが落ち着いておるか、落ち着いていないか、そういう事と我々の社会がどんな状態になっているかという事と、あるいは世界がどういう状態になっていくかという事、戦争が始まるか、始まらないかという事と密接に関連している。

そういう点では宗教と言うものが単に高遠な理想だけを述べておるのでは宗教としての役割を果たせない。むしろ我々の日常生活をどう送っていくかというふうな手近な問題がキチッと整理されるところに、初めて宗教と言うものが意味を持ってくる。現実の上において力を持ってくるという事にならざるを得ない。

※雑記
天気がよかったので、昔よく行った河原にお弁当をもって出かけお昼を食べてきた。坐禅をする前は釣りに夢中になり、定休日には毎回池や川に出かけた。オイカワ、ウグイ、フナ、鯉、へら鮒釣りなど飽きるまでやった。ウキも餌も手作りして・・・。どこの釣り場でも女性は自分一人。夫とは釣り場では他人。真剣に釣りだけに集中した。完全燃焼しました。


いつも訪問していただきありがとうございます。

ランキングに参加しています。応援クリックお願いします。
関連記事
トラックバック
トラックバック送信先 :
コメント

フリーエリア

「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

最近の記事

最近のコメント

カテゴリ

FC2カウンタ-