正法眼蔵 洗浄 7
天童如浄禅師が当時の中国で髪を伸ばし爪を伸ばしていた僧侶に与えた言葉に言う。
頭をきれいに剃ると言う事を理解していない者は俗人でもない、僧侶でもない。それは畜類以外の何ものでもない。釈尊以来仏道の真実を究められた方々は全て頭をきれいにしている。したがって頭をきれいに剃っていない者はまさに畜生である。
天童如浄禅師の言葉を道元禅師が注釈されます。
この様に多くの僧侶に対して教えを垂れたところが、長年頭を剃らないでいた人々で頭を剃った僧侶が多かった。また天童如浄禅師は法堂に上がっての正式の説法の際にも、法堂以外のところで行う臨時の説法の際にも、指をはじいてやかましく音を出しながら叱った。
「どのような主張が正しい理論かもわきまえず、やたらに髪を伸ばし爪を長くしていることは哀れな事である。この人間の世界に生まれ合わせて、心がけ次第では仏道を勉強する事のできる体であり心でありながら、仏道に自分の身心をゆだねることをしないという事は気の毒な話である。
ここ、二、三百年来、釈尊の教えや達磨大師の教えが廃れたたために、髪を伸ばしたり爪を伸ばしたりしている僧侶が非常に多い。このような者が寺院の主人となり禅師とか大師とか国師という名前をもらって、その名前の下に自分の署名をし沢山の人に教えると言う外見を呈している。
これらの事は人々になんら幸いをもたらさない。中国の様々の地方にある寺院においては、真実を得たいという気持ちを持っている者がまったくいない。真実を得たと言う人物が長い期間にわたって絶えてしまっている。ただただ仏道を破り仏道から墜落してしまった人々のみであると。
この様に天童如浄禅師が沢山の僧侶を前に説法されたけれども、諸地方から集まってきた長老と呼ばれている長年の経験を持った僧侶たちも、この天童如浄禅師の痛烈な批判を恨むこともなく言い訳をすることもなく大人しく聞いていた。
明確に知らなければならない。髪を長く伸ばすという事は釈尊の戒められたところである。爪を長くするという事は外道(釈尊の教え以外の教えを信じている人)のやる事である。したがって釈尊の弟子である者はこれらの誤ったやり方というものを好んではならない。体や心を浄くする事に心がけ爪を切り髪を短くする事をるべきである。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
釈尊の仏像を拝見しますと殆ど螺髪の姿が多いと言う記憶がありますので、私はこの際の浄髪と言うのは剃髪ではなくて、頭の毛をよく整えなさいという意味もあるんじゃないかと。
先生
ただ道元禅師のご趣旨はどうも頭を剃ることのようですね。他の部分なんかから推察しますと。
質問
すると、どこまでも道元禅師の師である天童如浄禅師の言われた浄髪は、やはり剃髪と解釈するのが穏当だと。
先生
だと思います。ですから道元禅師が中国に行かれた時におそらく髪を長くしていて、しかも僧侶であった人々がかなりいたんだと思いますね。それに対して剃ることを勧めたと、こういうことじゃないかと思いますね。
※雑記
雨です。寒いです。風も吹いてます。高齢者のお客さんが多いのでこういう日は暇です。忙しいときは忙しいなりに、暇なときは暇なりに仕事をしているので疲れることはありません。
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天童如浄禅師の言葉を道元禅師が注釈されます。
この様に多くの僧侶に対して教えを垂れたところが、長年頭を剃らないでいた人々で頭を剃った僧侶が多かった。また天童如浄禅師は法堂に上がっての正式の説法の際にも、法堂以外のところで行う臨時の説法の際にも、指をはじいてやかましく音を出しながら叱った。
「どのような主張が正しい理論かもわきまえず、やたらに髪を伸ばし爪を長くしていることは哀れな事である。この人間の世界に生まれ合わせて、心がけ次第では仏道を勉強する事のできる体であり心でありながら、仏道に自分の身心をゆだねることをしないという事は気の毒な話である。
ここ、二、三百年来、釈尊の教えや達磨大師の教えが廃れたたために、髪を伸ばしたり爪を伸ばしたりしている僧侶が非常に多い。このような者が寺院の主人となり禅師とか大師とか国師という名前をもらって、その名前の下に自分の署名をし沢山の人に教えると言う外見を呈している。
これらの事は人々になんら幸いをもたらさない。中国の様々の地方にある寺院においては、真実を得たいという気持ちを持っている者がまったくいない。真実を得たと言う人物が長い期間にわたって絶えてしまっている。ただただ仏道を破り仏道から墜落してしまった人々のみであると。
この様に天童如浄禅師が沢山の僧侶を前に説法されたけれども、諸地方から集まってきた長老と呼ばれている長年の経験を持った僧侶たちも、この天童如浄禅師の痛烈な批判を恨むこともなく言い訳をすることもなく大人しく聞いていた。
明確に知らなければならない。髪を長く伸ばすという事は釈尊の戒められたところである。爪を長くするという事は外道(釈尊の教え以外の教えを信じている人)のやる事である。したがって釈尊の弟子である者はこれらの誤ったやり方というものを好んではならない。体や心を浄くする事に心がけ爪を切り髪を短くする事をるべきである。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
釈尊の仏像を拝見しますと殆ど螺髪の姿が多いと言う記憶がありますので、私はこの際の浄髪と言うのは剃髪ではなくて、頭の毛をよく整えなさいという意味もあるんじゃないかと。
先生
ただ道元禅師のご趣旨はどうも頭を剃ることのようですね。他の部分なんかから推察しますと。
質問
すると、どこまでも道元禅師の師である天童如浄禅師の言われた浄髪は、やはり剃髪と解釈するのが穏当だと。
先生
だと思います。ですから道元禅師が中国に行かれた時におそらく髪を長くしていて、しかも僧侶であった人々がかなりいたんだと思いますね。それに対して剃ることを勧めたと、こういうことじゃないかと思いますね。
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