正法眼蔵 洗浄 6
華厳経浄行品について道元禅師の注釈は続きます。
右左の指の爪を切る必用がある。右左足の指の爪も切るべきである。足の爪、手の爪が、麦の一粒の幅よりも長い状態になったならば、宗教上非難される行為となると経典に記されている。
したがって爪を長くしてはならない。爪が長いということは外道(釈尊の教え以外の教えを信じる人々)のやったところである。しかるに現在の大宋国の僧侶の間でも、仏道を学ぶ上の見識が具わっていない人々は爪を長くしている人が多かった。ある人は一寸、二寸ある人は三、四寸に長くしている人もある。
これは釈尊の教えに背き釈尊の説かれた教えにのっとった体と心と言うものではない。仏教徒でありながら昔の教えを十分に勉強することが足りないためにこの様である。しかしながら、仏道がよくわかっている長年の修行者は爪を長くしている人はいなかった。
また髪を長く伸ばしている人々がいるけれども、これも釈尊の教えに背く。大国であり文明国でもある宋の僧侶がやっている事だからと言って、何でも釈尊の教えに適うものであろうと考え違いをしてはならない。
※西嶋先生解説
釈尊の教えというのは高尚な霞を食って生きるような抽象的な教えではなかった。日常生活において爪をきりなさい、爪を汚くしていてはいけませんよ、と言う様な教えも含まれていた。そう言う事の中に釈尊の教えのかなり重要な部分があったということは、古い経典にこういう教えが残されているという事でかなりはっきりする。
―西嶋先生の話―
先日、21歳になるイスラエルの青年と27歳のイギリスの青年が電話をかけてきて「坐禅のやり方」を教えてくれと言うから教えてあげたのであるが、その時聞いた話で、東京の都市は実にいいと二人が誉めてくれた。なぜいいかと言うとイスラエルの都市でもロンドンでも生命の危機を感じないで街を歩くことが出来ないと、そういうことをしきりに言っておった。
数年前にはロンドン辺りでそんなことはなかったのであるが、現在では都市の治安状態と言うのはかなり悪いらしい。東京ぐらい安心して歩ける都市はないと言って喜んでおった。
我々は普段東京にいるわけだから他の国がそれほどだという感じを持たなかったけれども、そういう人の話を聞いてみると諸外国の治安状況と言うものは、年々悪くなってきているんではないかと言う感じを持たざるを得ない。そのことはどういうことかが原因かと言うと、一番単純に考えれば人間の気持ちが落ち着かなくなったということにあるんではないか。
何か不安におびえて安心して生活していられないという傾向がだんだん出てきておるんではないかということ。その点では、それぞれの国と国とが対立してお互いに自分たちの考え方がいいんだということで論争しておるわけだけれども、解決しないままだんだんそれが先鋭化していくという事が世界的にあるんではないかと言う気がする。
我々が坐禅をやったり仏教を勉強したりしているのは世界のそういう事情と大いに関係がある。仏教と言うのはどういう考え方かと言うと、右の考え方も正しくない、左の考え方も正しくないと言う主張を中心に持っている。
もうちょっとお互いの国が考え方を現実的にすれば、つまり我々が生きている日常生活と言うものをよく見て、日常生活がどうなっているか知ったうえで、それを基礎にしてものを考え行動するならば、もう少し歩み寄りが可能ではないかと言う問題がある。
※雑記
野球は見たことがないのですが、世界野球大会を見始めました。侍ジャパン強いですね。楽しみが増えました。
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右左の指の爪を切る必用がある。右左足の指の爪も切るべきである。足の爪、手の爪が、麦の一粒の幅よりも長い状態になったならば、宗教上非難される行為となると経典に記されている。
したがって爪を長くしてはならない。爪が長いということは外道(釈尊の教え以外の教えを信じる人々)のやったところである。しかるに現在の大宋国の僧侶の間でも、仏道を学ぶ上の見識が具わっていない人々は爪を長くしている人が多かった。ある人は一寸、二寸ある人は三、四寸に長くしている人もある。
これは釈尊の教えに背き釈尊の説かれた教えにのっとった体と心と言うものではない。仏教徒でありながら昔の教えを十分に勉強することが足りないためにこの様である。しかしながら、仏道がよくわかっている長年の修行者は爪を長くしている人はいなかった。
また髪を長く伸ばしている人々がいるけれども、これも釈尊の教えに背く。大国であり文明国でもある宋の僧侶がやっている事だからと言って、何でも釈尊の教えに適うものであろうと考え違いをしてはならない。
※西嶋先生解説
釈尊の教えというのは高尚な霞を食って生きるような抽象的な教えではなかった。日常生活において爪をきりなさい、爪を汚くしていてはいけませんよ、と言う様な教えも含まれていた。そう言う事の中に釈尊の教えのかなり重要な部分があったということは、古い経典にこういう教えが残されているという事でかなりはっきりする。
―西嶋先生の話―
先日、21歳になるイスラエルの青年と27歳のイギリスの青年が電話をかけてきて「坐禅のやり方」を教えてくれと言うから教えてあげたのであるが、その時聞いた話で、東京の都市は実にいいと二人が誉めてくれた。なぜいいかと言うとイスラエルの都市でもロンドンでも生命の危機を感じないで街を歩くことが出来ないと、そういうことをしきりに言っておった。
数年前にはロンドン辺りでそんなことはなかったのであるが、現在では都市の治安状態と言うのはかなり悪いらしい。東京ぐらい安心して歩ける都市はないと言って喜んでおった。
我々は普段東京にいるわけだから他の国がそれほどだという感じを持たなかったけれども、そういう人の話を聞いてみると諸外国の治安状況と言うものは、年々悪くなってきているんではないかと言う感じを持たざるを得ない。そのことはどういうことかが原因かと言うと、一番単純に考えれば人間の気持ちが落ち着かなくなったということにあるんではないか。
何か不安におびえて安心して生活していられないという傾向がだんだん出てきておるんではないかということ。その点では、それぞれの国と国とが対立してお互いに自分たちの考え方がいいんだということで論争しておるわけだけれども、解決しないままだんだんそれが先鋭化していくという事が世界的にあるんではないかと言う気がする。
我々が坐禅をやったり仏教を勉強したりしているのは世界のそういう事情と大いに関係がある。仏教と言うのはどういう考え方かと言うと、右の考え方も正しくない、左の考え方も正しくないと言う主張を中心に持っている。
もうちょっとお互いの国が考え方を現実的にすれば、つまり我々が生きている日常生活と言うものをよく見て、日常生活がどうなっているか知ったうえで、それを基礎にしてものを考え行動するならば、もう少し歩み寄りが可能ではないかと言う問題がある。
※雑記
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