正法眼蔵 洗浄 4
大比丘三千威儀経に言う。
体を浄めるという事は、肛門や尿道口を洗い、十本の指の爪を切ることである。
大比丘三千威儀経について道元禅師が注釈されます。
体も心も本来汚れのないものではあるけれども、さらに体を洗うやり方があり、それによって心を洗うというやり方がある。そしてただ体や心を綺麗にするだけではなしに、広く国土を清めることもある。
国土は未だかつて塵にまみれ汚れに染まった事はないけれども、そういう綺麗なところでもさらにこれを清めるということが真実を得られた方々の願いである。そしてこの願いは人が真実を体得して後もなお衰えずに廃絶されることがない。
この汚れを避けるということ、清める事の基本的思想とは日常生活に様々の形である事であって、それらを全部拾い上げて考えつくすことは到底できない。法(宇宙秩序)に従って行動する事が仏教思想の根本である。真実を体得したということは、とりもなおさず法(宇宙秩序)に適った動作をすることに他ならない。
※西嶋先生解説
真実を得たということはどういうことかと言えば、きちっと履物を脱ぐことであり、手洗いに行ったら手をきれいに洗うことであり、手洗いに入りながら煙草を吸わないことであり、と言う風な事になるわけ。手洗いに行くと、煙草が美味しいと見えてよく手洗いの中でタバコを吸う人がおるらしい。
事実そういう風景をよく見る。だけれども、そういうことは仏道との関係では必ずしも好ましくない。仏道と言うのは、一つの時間には一つの事をやるという原則がある。だから煙草を吸いながら手洗いの用を足すということは決してほめられた話ではない。手洗いの用を足している時には一所懸命それだけをやればいい。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
自律神経のバランスがわかる前は坐禅の効用は何だったんですか。
先生
「等」とか「定」とかと言う言葉で、やっぱり気持ちの落ち着きと言う風なもの。
質問
それはもうだいぶ前から・・・。
先生
そうそう。鎌倉時代にもすでに言われておったし、それ以前からずっと言われてきたこと。経典にもしきりに出てくるわけですね。
質問
自律神経が一番いい状態と言うのは適度な緊張感という・・・。
先生
それがありますね。だから緊張し過ぎているのは必ずしもノ-マルな状態ではない。だからその点では沢木老師がよく言っておられた言葉に――いまは柔道と言うのは講道館と京都の武徳殿が中心になって、だいたい講道館の柔道に統一されているわけですが、明治維新以前は自然流とか起倒流とかそれぞれ武道としての柔術があったわけですよね。
その一つの流派の極意に「中ほどの自由自在」と言う言葉があるそうです。で、仏道の狙いと言うのは中ほどの自由自在だと。だからあんまり緊張し過ぎてコチコチになっておっても柔道の力は出てこないし、そうかといってデレッとしていれば首を締められちゃう。そうすると、緊張もほどほどに、心の余裕もほどほどにと言うのが極意だと、そういうふうな主張があるわけですけどね。
これは人間のあり方として非常に大切な事だと思うんです。もうコチンコチンに固まってしまったならば体の自由は効かなくなってしまう。そうかといって気を抜いておればそれではうまくいかない。そうするとホドホドの緊張ということが人生における極意だということにもなろうかと思うんですね。
質問
ただいまの柔道の極意――適当な緊張と弛緩、これはもう少し伺いますとどういうことになりますか。
先生
それはどういうことかと言えば、坐禅している時の状態と言う風に言えば実物そのものですわな。坐禅をしている時というのはそうコチンコチンに緊張しきっていると言う様な事でもないし、そうかといって弛んで寝転んでテレビを見ているのと同じかと言うと中々そうではないということが一つの例ですわな。
だから仏教と言うものを理屈で考えてやっていっても意味がないということは言える。坐禅をやって実際にそういう境地に入り込んでしまえば何の理屈も必要ないし、まさに仏道の境地の中に自分自身を置くことが出来るわけですよ。だからそういう点で道元禅師が「只管打坐」と言われたのは、そういう意味。
だからそういう点では実際に自分がその中に入り込んでしまうという事、そのために坐禅があるんだと、そういう風な理解の仕方で間違いないと思います。
※雑記
花粉症のお客さんがいる。私は花粉症の辛さがわからない。農家に生まれ屋敷の中にも杉の木があり慣れてしまったからかな、と思ったり。「いつ花粉症になるかわからないよ、そしてそのときはお仲間だね」と言われたり・・・。
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体を浄めるという事は、肛門や尿道口を洗い、十本の指の爪を切ることである。
大比丘三千威儀経について道元禅師が注釈されます。
体も心も本来汚れのないものではあるけれども、さらに体を洗うやり方があり、それによって心を洗うというやり方がある。そしてただ体や心を綺麗にするだけではなしに、広く国土を清めることもある。
国土は未だかつて塵にまみれ汚れに染まった事はないけれども、そういう綺麗なところでもさらにこれを清めるということが真実を得られた方々の願いである。そしてこの願いは人が真実を体得して後もなお衰えずに廃絶されることがない。
この汚れを避けるということ、清める事の基本的思想とは日常生活に様々の形である事であって、それらを全部拾い上げて考えつくすことは到底できない。法(宇宙秩序)に従って行動する事が仏教思想の根本である。真実を体得したということは、とりもなおさず法(宇宙秩序)に適った動作をすることに他ならない。
※西嶋先生解説
真実を得たということはどういうことかと言えば、きちっと履物を脱ぐことであり、手洗いに行ったら手をきれいに洗うことであり、手洗いに入りながら煙草を吸わないことであり、と言う風な事になるわけ。手洗いに行くと、煙草が美味しいと見えてよく手洗いの中でタバコを吸う人がおるらしい。
事実そういう風景をよく見る。だけれども、そういうことは仏道との関係では必ずしも好ましくない。仏道と言うのは、一つの時間には一つの事をやるという原則がある。だから煙草を吸いながら手洗いの用を足すということは決してほめられた話ではない。手洗いの用を足している時には一所懸命それだけをやればいい。
―西嶋先生にある人が質問した―
質問
自律神経のバランスがわかる前は坐禅の効用は何だったんですか。
先生
「等」とか「定」とかと言う言葉で、やっぱり気持ちの落ち着きと言う風なもの。
質問
それはもうだいぶ前から・・・。
先生
そうそう。鎌倉時代にもすでに言われておったし、それ以前からずっと言われてきたこと。経典にもしきりに出てくるわけですね。
質問
自律神経が一番いい状態と言うのは適度な緊張感という・・・。
先生
それがありますね。だから緊張し過ぎているのは必ずしもノ-マルな状態ではない。だからその点では沢木老師がよく言っておられた言葉に――いまは柔道と言うのは講道館と京都の武徳殿が中心になって、だいたい講道館の柔道に統一されているわけですが、明治維新以前は自然流とか起倒流とかそれぞれ武道としての柔術があったわけですよね。
その一つの流派の極意に「中ほどの自由自在」と言う言葉があるそうです。で、仏道の狙いと言うのは中ほどの自由自在だと。だからあんまり緊張し過ぎてコチコチになっておっても柔道の力は出てこないし、そうかといってデレッとしていれば首を締められちゃう。そうすると、緊張もほどほどに、心の余裕もほどほどにと言うのが極意だと、そういうふうな主張があるわけですけどね。
これは人間のあり方として非常に大切な事だと思うんです。もうコチンコチンに固まってしまったならば体の自由は効かなくなってしまう。そうかといって気を抜いておればそれではうまくいかない。そうするとホドホドの緊張ということが人生における極意だということにもなろうかと思うんですね。
質問
ただいまの柔道の極意――適当な緊張と弛緩、これはもう少し伺いますとどういうことになりますか。
先生
それはどういうことかと言えば、坐禅している時の状態と言う風に言えば実物そのものですわな。坐禅をしている時というのはそうコチンコチンに緊張しきっていると言う様な事でもないし、そうかといって弛んで寝転んでテレビを見ているのと同じかと言うと中々そうではないということが一つの例ですわな。
だから仏教と言うものを理屈で考えてやっていっても意味がないということは言える。坐禅をやって実際にそういう境地に入り込んでしまえば何の理屈も必要ないし、まさに仏道の境地の中に自分自身を置くことが出来るわけですよ。だからそういう点で道元禅師が「只管打坐」と言われたのは、そういう意味。
だからそういう点では実際に自分がその中に入り込んでしまうという事、そのために坐禅があるんだと、そういう風な理解の仕方で間違いないと思います。
※雑記
花粉症のお客さんがいる。私は花粉症の辛さがわからない。農家に生まれ屋敷の中にも杉の木があり慣れてしまったからかな、と思ったり。「いつ花粉症になるかわからないよ、そしてそのときはお仲間だね」と言われたり・・・。
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