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正法眼蔵 洗浄 2

「洗浄」の巻、本文に入る前に西嶋先生の話は続きます。

だから今日でも「禊」と言う言葉がある。水でそそぐ、水で体を洗うということ。今日でも滝に打たれたり、川に飛び込んで体を洗ったりすることを「禊」と言うけれども、神代にはそういう水で体を洗うという習慣しかなかった。

お湯を沸かして体を洗うようになったのは仏教と一緒に大陸の文明が入ってきてから初めてそういう習慣を勉強するようになった。だから奈良朝時代、あるいはそれより少し前の寺院で初めて浴室と言うものを建ててお湯を沸かして人々がたくさん風呂に入るようになって、初めて日本国民は風呂と言う習慣を大陸から学んだということが歴史的な事実としてある。

そうすると風呂に入るという風な事もきわめて大切な文化の一部、文明の一部。文明と言ってみても、汽車が走るとか、飛行機が飛ぶとか、これも勿論文明の一種であるけれども、顔を洗うとか、手を洗うとか、風呂に入るとかと言う風な事も文明の非常に大切な一部。

我々の卑近な日常生活をとってみても、戦前と戦後では日本のあるいは都市における手洗いの清潔か不潔かと言う点では雲泥の差がある。年齢の若い方はそういう風なものを実際に見たことがないかも知らんけれども、我々の子供の頃は日本の家庭の手洗いと言うのは実に不潔なものだった。

大きな穴が開いておって、下をのぞくとあまりきれいでないものが見える。匂いも決してよくない。子供心にもどうしてこういう不潔な事しかできないんだろうと思ったけれども、それはどこの家庭でも当たり前の事でそれで時期的なそれをまた大きな柄杓を持って汲みに来てくれる商売があった。そういう形で手洗いと言うものは使われておった、その当時の日本国民にとってはそれしかできなかった。

ところが終戦後、幸運な事には水洗の手洗いが発達して今日では非常に清潔な思いをしている。そういう点では、戦前と戦後を比べて、手洗いに関する限りでは日本文明は非常に進歩した。長足の進歩をした。少なくとも、我々の生活が非常に快適になったということは言える。文化とはそういうもの。

手洗い(トイレ)がきれいだと言う事も、国民の文化程度を推察する上においては、かなり大きな意味を持っておるのではないか。そういうふうなことも感じられるわけだ。そういう意味からして、この「洗浄」の巻は、道元禅師が仏道というものが日常生活、特に体を清潔にする事と密接な関係があるいうことを説かれた巻で、そういう点では大事な巻というふうに考えて差し支えないと思う。

※雑記
電話で親友と修学旅行の思い出話をした。自分が中学生だった頃は文通が流行っていて二人とも京都の人と文通していた。担任の許可をもらい修学旅行の自由時間に会うことができた。60年も前のことだから相手の顔も思い出せない。何でかわからないけど当時の話になった。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をして、愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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