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正法眼蔵 弁道話 43

道元禅師の話は続きます。

元来仏法を国中に広めるにあたっては国王の命令を待ってすべきであると一般に言われているけれども、あらためて釈尊の残された教えを考えてみるに、沢山の国々の国王、王子、大臣、大将等、様々な人々がいずれも有り難いことには釈尊の直接の命令を受けて、かつての時代における仏法を守り保持しようとする本来の志を忘れず現在に生きてこられたものである。

その教化の及ぶ場所は一つとして釈尊の支配していない国はない。この様な理由から釈尊の説かれた教えを広く行き渡らせるという観点からすれば、必ずしも場所を選んだり、客観情勢の熟するのをまったりする必要はない。今日が最初今日が出発点と言う考え方で、くじけず努力して行く以外に我々の人生はない。

そういう考え方から外国で見聞きしてきたところを拾い集めて、釈尊の説かれた宇宙の秩序をどうにかして得たいと考えている優れた師匠や、真実を求め雲や浮き草のようにあちこちと諸国を遍歴して仏道を勉強したいと考えている真の求道者にこの教えを残す。

           「正法眼蔵弁道話」
           1231年旧暦8月15日
           宋の国に行き釈尊の教えを日本に伝承して来た
           僧侶である道元が書き記した。




          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
大変細かい質問で恐縮なんですが「弁道話」の終わりに「寛喜辛卯中秋日」とありますね。寛喜辛卯は日本的な年号なんですが、1231年という西暦の年号をお使いになりましたのは先生が初めてなんでしょうか。

先生
今の年号問題とも考え方として関連があるんですが、私がなぜ西暦年号を使ったかと言いますと、思想というものは世界的に通用しなきゃならんという事があると思うんです。だからそういう点では寛喜辛卯というふうに日本の古来の年号に従って説明しますと、いかにも古めかしくて権威があるような感じはするわけです。

ただ思想とは世界的に通用しなきゃならんという事であるとすれば、年号の表現としては世界に通用する年号の数え方の方がより適切だというのが私の考え方です。それで現代語訳の方では西暦を使った。西暦が尊くて東洋が駄目だとか、東洋は尊くて西洋は駄目だという事ではなしに、どこの国でも通用する年代の数え方というものが基準になって決しておかしくないんだという事に関連しているわけです。

質問
そうしますと「正法眼蔵」を書いた日につきましては、全部先生は西暦年号を使っておられますけれども、これは先生の大変失礼な言葉とは思いますけれども、独創であると解釈してもよろしいわけですか。

先生
今までこういう表現の仕方をしなかったという事は事実ですね。

質問
すると、先生が初めておやりなったと。

先生
おそらくそうだと思います。それで、私の「正法眼蔵」に対する説明の仕方も、どういう言葉を使うかというと世界的に通用する言葉を基準にするわけです。だからそういう点では年号も同じような意味がある。単に、新しがって特にという事ではなしに、公平な意味で普通に理解するならばそういう理解の仕方の方がより適切だと、そういう考え方です。

※雑記
昨日NHKの「ファミリーヒストリー」を見て思ったこと。
 1・一生独身  2・結婚  3・結婚+子供  4・結婚+子供+孫
今はいろんな生き方があります。結婚しない人も増えてますね。自分の回りにも孫のいない人は結構います。子供のはしゃぐ声があちこちから聞こえるようになるといいですね。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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