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正法眼蔵 弁道話 42

道元禅師の話は続きます。

総じて我が国は大海の東に位し、インドや中国から見ると雲や煙を隔て非常に遠い国ではあるけれども、欽明天皇、用明天皇の時代の前後から、仏教が西方から伝わってきた事は日本の人々にとって幸せな事であった。しかしながら頭で考えた事や見聞きした事についての哲学論議は盛んであったけれども、実際の修行を一体どうすればいいのか見当もつかなかった。

ところが今は自分(道元)が中国から坐禅というものを持って来た。破れ衣をまとい粗末な食器を自分の生涯の唯一の友として、自然の環境の中において茅で粗末な家を建て、その中できちんと坐って坐禅による修行をする事により、単に釈尊の教えがわかるという事だけではない。

さらにそれを基礎にしてますます向上していくという生活がたちまち具体的なものになって、自分の一生をかけて仏道を勉強してみたいという大事業が即座に究極の目的に到達してしまう事態となるのである。これこそ竜牙居遁禅師の残された尊い教えであり、摩訶迦葉尊者の遺風である。

その坐禅のやり方については、自分(道元)が中国から帰国した嘉禄の年代に編集した「普勧坐禅儀」に依って、出家人も在家人も修行すべきである。



           ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
たいていの講師の方が小我を捨てて大我につきなさい、自我を捨てなさい、真我を磨きなさいと言う事をお説教の常套みたいに使われていますが・・・。
    
先生
昔からそういう説明の仕方もありますけれどもね。ただ坐禅をやった上で「法」とは何かというふうな実際の体験と言うものから割り出していきますと、大我と言うものがどっかにあって、小我とどっかで落ち合うというふうな体験はないですね。どうにもしょうがないこの「でくのぼう」が、坐禅をしているおかげでそう道を外さないと言うだけのものです。

だから坐禅をしなければ何をするかわからないですよ。私自身がそうだ。毎日坐禅をやっているから、多少軌道を外れないだけのものでね。坐禅をやらないで街で飲み歩いておれば、金がなくなればみみっちい事だってするだろうしね。人間と言うのはそういうもんです。だから、大我があって、それと一体になって無我になったら、ましになるなんてそんな事はありえないと思う。無我なんて事はありえないと思う。

このわけのわからんものが坐禅をやっているから、まあ何となくそうおかしな事をやらないと言うに過ぎない様な気がする。道元禅師が「只管打坐」、ただ坐禅をすると言ったのはそういう意味だと思います。人間と言うのはそう頼りになるものではないですよ。坐禅をやっているからやっと線路をそう外れないだけの事です。

※雑記
家に遊びに来る友達は一人。年に数える程度しか会わない60年以上の付き合いになる○○さん。昼過ぎに来て6時頃まで話した。近況、時事問題等々話は尽きない。彼女は毎日坐禅をしてブログで「正法眼蔵」も毎日読んでいると言う。嬉しい限りです


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」を毎日ブログで紹介しています。愚道和夫老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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