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正法眼蔵 深信因果 8

龍樹尊者が言われた。

外道は一般社会における原因・結果の関係を否定するところから、現在と未来という時間の観念がなくなってしまう。そしてまた一般社会における原因・結果の関係を否定するならば、三宝という三種類の最高価値や四諦という仏教思想の基本である四種類の考え方や、仏道修行の中で経験することのできる四種類の成果というものが存在しないことになる。

外道―釈尊の教えを信じない人々   ※三宝―仏・法・僧    
四諦―苦・集・滅・道
四種類の成果―須陀洹果・斯陀含果・阿那含果・阿羅漢果



          ―西嶋先生にある人が質問した―

質問
今の時代は善悪の境界線というか、そういったものがすごく明白じゃないというか・・・。例えば、これは現代ではないですが鼠小僧の様な人がいまして貧乏人に盗んだ金をばらまいてやると。そういうふうな行動は仏道という物差しではかりますと、どのようなことになるんでしょうか。

先生
その点では、鼠小僧の問題はこれは講談から生まれた話ですからね。お伽噺の一種だからまあ基準になるかどうかよくわからんわけですけれども、それと同時に今日が善悪というものをほとんど問題にしない時代だということははっきり言えると思います。

なぜそういう時代が生まれたかと言うと、昭和20年8月15以前までは日本の国には国家主義という一つの基準があったんです。ですから国家主義にかなうものは善であり国家主義に反するものは悪であると、こういう基準があったから明治維新以降昭和20年までは日本国内の考え方というものは善悪が非常に徹底しておった。

ところが昭和20年の8月15日に今までの基準は全部ウソだと、こういうことになった。ということは、国家主義の基準が全部崩れてしまったわけです。そのことは、善悪の基準というものは全くなかったということを意味するわけですから、そこで善悪の基準として何が残ったかと言うと、功利主義の道徳が残ったんです。

つまり損をすることは悪であり得をすることは善であると、こういう功利主義の考え方が昭和20年以降、国民の信仰として、強固な形で今日でも生きているわけです。

そのことは昭和20年8月15日以降、日本国民の99%までが唯物論者になったということを意味するわけです。唯物論の立場に立つならば、善悪の問題というのは全部損得の問題に解釈し直されるわけです。ただ善悪の問題というものを考えてみた場合に、損得だけで善悪の全てが説明できるかと言うと、これは本当の意味での善悪の説明にならない。

ただ唯物論の立場からするならば、善悪というものはすべて損得の立場で考えるべきものだという原則がありますから、今日我々の社会思想というものは損をすることが悪であって得をすることが善であると、こういう考え方で一切が運営されておると言っても間違いではない。

だから五億円を机の上に置かれた場合に「あ、ありがとう」と言って受け取るというふうなことも、昭和20年以降、日本国民の間に行われている倫理道徳観からするならば一向に悪くないんです。倫理道徳の問題ではない。ただ日本に法律があったから法律に引っかかるか引っかからないかということで問題になったというに過ぎないと、こういう問題があると思います。


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「正法眼蔵」は仏道を勉強する上において「なぜ坐禅をやらなければならないか」という事を事細かに疑問の余地のない形で詳細を述べておられる。だから「正法眼蔵」を読んで仏道の理論的な側面を勉強しながら自分自身で坐禅をやるならば、仏道修行においては欠けているところはない。―愚道和夫老師―

プロフィール

幽村芳春

Author:幽村芳春
70代女性。自営業。自宅で毎日朝晩坐禅をしています。愚道和夫老師が講義された道元禅師著「正法眼蔵」をブログで紹介しています。老師より平成13年「授戒」平成20年「嗣書」    

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